言志四録 / 言志晩録 第二百五十七条 百里を行く者は九十を半ばとす
余少壯時氣銳。視此學謂容易可做。至晚年蹉跎不能如意。譬如登山。自麓至中腹易。中腹至絕頂難。凡晩年所爲。皆收結事也。古語。行百里者半九十。信然。
新字:余少壮時気鋭。視此学謂容易可做。至晩年蹉跎不能如意。譬如登山。自麓至中腹易。中腹至絶頂難。凡晩年所為。皆収結事也。古語。行百里者半九十。信然。
書き下し
余少壮の時気鋭く、此の学を視て容易に做すべしと謂へり。晩年に至りて蹉跎として意の如くなる能はず。譬へば山に登るが如し。麓より中腹に至るは易く、中腹より絶頂に至るは難し。凡そ晩年の為す所は、皆収結の事なり。古語に「百里を行く者は九十を半ばとす」と。信に然り。
現代語訳
私は若く壮んなころ意気が鋭く、この学問をたやすく成し遂げられるものと思っていた。晩年になると、つまずいてばかりで思うようにならない。たとえば山に登るようなものである。麓から中腹までは容易だが、中腹から頂上までは難しい。およそ晩年になすことは、すべて締めくくりの仕事である。古語に「百里を行く者は九十里をもって半ばとする」とある。まことにその通りである。
解説
前の二条で説いた「収結」の難しさを、一斎は自分の生涯に引き当てて語ります。若いころは聖賢の学もたやすく成就できると思っていたのに、晩年になるとかえって思うに任せない。登山で言えば中腹から頂上への道がいちばん険しいのと同じだと言います。引かれる「百里を行く者は九十を半ばとす」は『戦国策』秦策に見える古語で、残り一割にこそ前半と同じだけの力がいるという意味です。八十歳を過ぎても学を続けた一斎が、晩年を「収結の事」と位置づけた言葉には重みがあります。経験を積んだ中堅以降こそ、最後の詰めの難しさに向き合う段階にある、と読み替えることもできます。
この章句が説くこと
収結晩年学問持続謙虚
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