言志四録 / 言志晩録 第二百二十五条 覚悟は儒家も言ふべし
覺悟。釋之常言。儒家避嫌而憚言。非也。心有所感發。皆謂之悟。孔子川上之嘆。是道體之悟也。顏子喟於仰鑽。曾子唯於一貫。非悟乎。朱子一旦豁然。亦是悟境。但當問所悟爲何事。
新字:覚悟。釈之常言。儒家避嫌而憚言。非也。心有所感発。皆謂之悟。孔子川上之嘆。是道体之悟也。顔子喟於仰鑽。曽子唯於一貫。非悟乎。朱子一旦豁然。亦是悟境。但当問所悟為何事。
書き下し
覚悟は、釈の常言なり。儒家嫌を避けて言ふを憚るは、非なり。心に感発する所有れば、皆之を悟と謂ふ。孔子川上の嘆は、是れ道体の悟なり。顔子の仰鑽に喟し、曾子の一貫に唯するは、悟に非ずや。朱子の一旦豁然たるも、亦是れ悟境なり。但だ当に悟る所の何事たるかを問ふべし。
現代語訳
「覚悟」は仏教でふだん口にされる言葉である。儒者が仏教に似ることを嫌ってこの語を口にするのを憚るのは誤りである。心に感じて奮い起こるところがあれば、それはみな悟りと言うのである。孔子が川のほとりで「逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎かず」と嘆じたのは、道の本体についての悟りである。顔回(孔子の高弟)が「之を仰げば弥々高く、之を鑽れば弥々堅し」と嘆息し、曾子(孔子の弟子)が「吾が道は一以て之を貫く」という孔子の言葉に「唯」と即答したのは、悟りではないか。朱子(朱熹)が「一旦豁然として貫通す」と言ったのも、また悟りの境地である。ただ、悟ったのが何事であるかを問うべきである。
解説
前の条の「似たるを嫌ひて真を誤ること勿れ」を具体的に示したような一条です。当時の儒者には、「悟り」は禅の言葉だとして避ける風潮がありました。一斎はこれを誤りとし、心に感じて奮い立つことがあればそれが悟りだと定義したうえで、孔子の川上の嘆、顔回の嘆息、曾子の「唯」、朱子の『大学章句』補伝の「豁然貫通」と、儒学の正統の中に悟りの例を次々と挙げます。大切なのは語が誰のものかではなく、何を悟ったかという中身だと結びます。学派の垣根にこだわらない一斎の姿勢がよく表れています。他業界や他社の言葉だからと敬遠せず、そこに含まれる本質を見るという態度は、学び方そのものを広げてくれます。
この章句が説くこと
悟り儒仏学派気づき本質
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