言志四録 / 言志晩録 第百三十五条 清世にも小失有り
世清時。亦就有小失處。世濁時。亦就有小得處。
新字:世清時。亦就有小失処。世濁時。亦就有小得処。
書き下し
世清める時も、亦就ち小失の処有り。世濁れる時も、亦就ち小得の処有り。
現代語訳
世の中がよく治まって清らかな時にも、やはり小さな失敗のところはある。世の中が乱れて濁っている時にも、やはり小さな良いところはある。
解説
短いながら、物事を一色に塗りつぶさない見方を示した一条です。清らかに治まった世にも小さな過ちはあり、濁った世にも小さな美点はある。良い時代だからとすべてを肯定せず、悪い時代だからとすべてを否定しない。一斎は前の条で気運の常と変を論じ、時勢には移り変わりがあると述べていました。どちらの局面にあっても、全体の印象に引きずられず細部を見よということでしょう。好調な時期ほど見過ごされる小さな綻びがあり、苦しい時期にも次につながる芽がある。業績の良し悪しで組織全体を評価しがちなとき、その内側にある小失と小得を拾い上げる目を持てているかを問いかけてきます。
この章句が説くこと
清濁得失物事の両面時勢観察
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