言志四録 / 言志晩録 第八十五条 至動の中に至静を認む
治心法。須認得至靜於至動中。呂涇野謂。用功不必山林。市朝亦做得。此言然。
新字:治心法。須認得至静於至動中。呂涇野謂。用功不必山林。市朝亦做得。此言然。
書き下し
心を治むるの法は、須らく至静を至動の中に認め得べし。呂涇野謂ふ、「功を用ふるは必ずしも山林ならず、市朝も亦做し得」と。此の言然り。
現代語訳
心を修める方法は、最も激しく動いているただ中に最も静かなものを見いだせなければならない。呂涇野(明の儒者、呂柟)は「修養の努力は必ずしも山林にこもってする必要はなく、市場や朝廷のただ中でもできる」と言った。この言葉はもっともである。
解説
心の修養は静かな場所に退いて行うものではなく、慌ただしい日常のただ中で行うものだという条です。呂涇野は明代の朱子学者呂柟で、実践を重んじた人です。その「山林でなくても市朝でできる」という言葉に一斎は賛同します。至静を至動の中に認めるとは、騒がしさを避けて静けさを得るのではなく、動きの中にありながら揺るがない中心を持つことです。前の条で震と艮の工夫が一つだと述べたこととも響き合います。幕府の儒官として公務に追われた一斎自身の実感でもあったでしょう。忙しさを理由に自分を整える時間がないと感じるとき、仕事の渦中こそが修養の場だという見方は、発想を変えるきっかけになります。
この章句が説くこと
治心静と動事上磨錬日常修養
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