言志四録 / 言志晩録 第四十六条 講書と作文
講書與作文不同。作文。只要飜習語做漢語。講書。則飜漢語以做習語。於敎授爲第一緊要事。不可視爲容易。
新字:講書与作文不同。作文。只要翻習語做漢語。講書。則翻漢語以做習語。於教授為第一緊要事。不可視為容易。
書き下し
講書と作文とは同じからず。作文は、只だ習語を翻して漢語と做すを要す。講書は、則ち漢語を翻して以て習語と做す。教授に於て第一緊要の事と為す。視て容易と為すべからず。
現代語訳
書物を講義することと文章を作ることとは同じではない。作文は、ただ日頃使い慣れた言葉を翻訳して漢文に仕立てればよい。講義は、逆に漢文を翻訳して日頃の言葉にするのである。これは教授において最も大切なことである。たやすいことと見てはならない。
解説
漢文の作文と経書の講義とは、方向が逆の翻訳だという指摘です。作文は日常の言葉を漢文に移すこと、講義は漢文を日常の言葉に移すこと。当時の日本の儒者にとって、漢籍の講義とはまさに異国の古典語を聴き手の生きた言葉に置き換える作業でした。一斎はこれを教授の第一の要事と言い、容易と見るなと戒めます。難しい原典の言葉をそのまま繰り返すのではなく、聴き手の暮らしの言葉で語り直せてこそ、本当に理解していると言えるからでしょう。専門用語や業界の言い回しを、相手の言葉に置き換えて説明できるか。これは教える人、伝える人すべてに通じる課題です。
この章句が説くこと
講義翻訳教授言葉伝える力
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