言志四録 / 言志晩録 第四十三条 講説は其の人に在り
講說在其人。不在口辯。如君子喩於義。小人喩於利。常人說此。嚼蠟無味。象山說此則使聽者愧汗。勿視爲易事。
新字:講説在其人。不在口弁。如君子喩於義。小人喩於利。常人説此。嚼蝋無味。象山説此則使聴者愧汗。勿視為易事。
書き下し
講説は其の人に在りて、口弁に在らず。「君子は義に喩り、小人は利に喩る」の如き、常人此れを説けば、蠟を嚼むが如く味無し。象山此れを説けば、則ち聴く者をして愧汗せしむ。視て易事と為すこと勿れ。
現代語訳
講義の良し悪しはその人にあり、弁舌の巧みさにあるのではない。たとえば「君子は義に敏く、小人は利に敏い」という言葉も、普通の人が説けば蠟をかむように味がない。しかし陸象山がこれを説くと、聴く者に恥じ入って汗を流させた。講義をたやすいことと見てはならない。
解説
「君子は義に喩り、小人は利に喩る」は『論語』里仁篇の言葉です。陸象山は朱子に招かれて白鹿洞書院でこの章を講じ、聴衆の中には涙を流す者もいたと伝えられ、朱子もその講義を書き留めて石に刻ませました。同じ一句でも、凡人が説けば蠟をかむように味気なく、象山が説けば聴く者は冷や汗をかいて我が身を省みる。違いは弁舌ではなく、語る人がその言葉をどれだけ生きているかにある、と一斎は見ます。前の二条の講説論をさらに一歩進め、講義は人格の表れだと言うのです。同じ理念を掲げても、誰が語るかで組織への届き方がまるで変わる。伝える技術の前に、伝える人の在り方が問われることを示しています。
この章句が説くこと
講説人格義と利説得力言行一致
関連する章句
-
『論語と算盤』人格と修養・権威ある人格養成法現代青年に取って最も切実に必要を感じつつあるものは人格の修養である。維新以前までは、社会に道徳的の教育が比較的盛んな状態であったが、西洋文化の輸入するにつれて思想界に少なからざる変革を来し、今日の有様ではほとんど道徳は混沌時代となった。すなわち儒教は古いとして退けられたから、現時の青年にはこれが十分咀嚼されておらず、というて耶蘇教が一般の道徳律になっている訳ではなおさらなし、明治時代の新道徳が別に成立したのでもないから、思想界は全くの動揺期で、国民はいずれに帰嚮してよいか、ほとんど判断にさえ苦しんでいる位である。したがって一般青年の間に人格の修養ということはほとんど閑却されているかの感なきを得ないが、これは実に憂うべき趨向である。
-
『論語と算盤』仁義と富貴・罪は金銭にあらず今日の社会状態は、昔よりは智識の発達が著しく進んで、思想感情の高尚な人が多くなった。さらに言い換えれば、一般の人格が高まって来ているのである。ゆえに金銭に対する念慮もよほど進んで来て、立派な手段を用いて収入を図り、善良なる方法をもって使用する人が多くなったので、金銭に対する公平なる見解をなすようになった。
-
『呻吟語』内篇・修身・大官を做すと好人を做す大官を做す底は是れ一樣の家數なり、好人を做す底は是れ一樣の家數なり。
-
『呻吟語』内篇・修身・我主張して天に由らず富貴福澤を得んと要するは、天主張して、我に由るを得ず。賢人君子と做らんと要するは、我主張して、天に由るを得ず。
-
『武士道』第十章 武士の教育・文学は消閑の娯楽として修む英国詩人の云へるが如く、武士は『人を救ふは信条に非らずして、信条を全うするは、ただ人に在り』と信ぜり。哲理と文学との二は、武士の智育の眼目を成せりと雖、此等を修むるに於ても、亦た武士の志す所は客観の真理に非ず。文学は要するに消閑の娯楽として之を修め、哲理は軍旅もしくは政治の問題を解明するが為に之を講ずるか、然らざれば品性を作るの実用に資するものなりき。しかるが故に、武士教育の課程は主として、撃剣、射術、柔術、騎術、槍術、兵法、書道、倫理、文学及び歴史の類なりしことは、又た異しむを須ひず。此中、柔術及び書道を必須とする要旨は、多少之れが説明を加へざれば、或は領し難きものあるべし。能書良筆を尊びたる所以のものは、けだし漢字の形象に成れるが故に、絵画の性質を帯びて美術的価値を有すると、又た筆蹟は人の性格を表示するものなりと認むるに由る。
-
『茶の本』第七章 茶の宗匠・芸術においては現在が永遠である宗教においては未来がわれらの背後にある。芸術においては現在が永遠である。茶の宗匠の考えによれば、芸術を真に鑑賞することは、ただ芸術から生きた力を生み出す人々にのみ可能である。ゆえに彼らは、茶室において得た風流の高い軌範によって、彼らの日常生活を律しようと努めた。すべての場合に心の平静を保たねばならぬ、そして談話は周囲の調和を決して乱さないように行なわなければならぬ。着物の格好や色彩、身体の均衡や歩行の様子など、すべてが芸術的人格の表現でなければならぬ。これらの事がらは軽視することのできないものであった。というのは、人はおのれを美しくして始めて美に近づく権利が生まれるのであるから。かようにして宗匠たちは、ただの芸術家以上のもの、すなわち芸術そのものとなろうと努めた。それは審美主義の禅であった。われらに認めたい心さえあれば、完全は至るところにある。利休は好んで次の古歌を引用した。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る