言志四録 / 言志晩録 第三十六条 安んぞ門戸の立つべき有らん
象山雖以濂溪明道爲依據。而太厭立門戶。甞曰。此理所在。安有門戶可立。學者各要護門戶。此尤鄙陋。信此言也。足見心之公平。
新字:象山雖以濂渓明道為依拠。而太厭立門戸。甞曰。此理所在。安有門戸可立。学者各要護門戸。此尤鄙陋。信此言也。足見心之公平。
書き下し
象山、濂渓・明道を以て依拠と為すと雖も、太だ門戸を立つるを厭ふ。嘗て曰く「此の理の在る所、安んぞ門戸の立つべき有らん。学者各々門戸を護らんと要す。此れ尤も鄙陋なり」と。信に此の言や、以て心の公平なるを見るに足る。
現代語訳
陸象山は周濂渓や程明道を拠り所としていたが、門戸(学派)を立てることをひどく嫌った。かつてこう言った。「この理のあるところに、どうして門戸を立てることがあろうか。学者がそれぞれ自分の門戸を守ろうとするのは、最も卑しく狭いことだ」と。まことにこの言葉によって、象山の心が公平であったことがよくわかる。
解説
前の条に続き、学派争いへの戒めです。陸象山は自らも先学を拠り所としながら、門戸すなわち学派の看板を立てて守ることを「鄙陋」と断じました。真理は一つであり、そこに党派の垣根を設けること自体が理から外れているという考えです。一斎はこの言葉に象山の心の公平さを見ています。朱子学者の側からは異端視されがちだった象山を、一斎は率直に評価しており、学派にとらわれない一斎自身の学問観がうかがえます。部署や出身、専門分野の垣根を守ることが目的化すると、組織全体の判断が曇ります。自分がいま守っているのは理なのか門戸なのかを問い直す手がかりになる言葉です。
この章句が説くこと
門戸公平学派党派心真理
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