言志四録 / 言志後録 第百九十九条 我が邦の南北朝
我邦南北朝。與漢土南北朝。事體逈別。漢土則南北異姓角立。又各相篡奪。眞是判爲南北矣。我邦則皇統一姓。宸居雖分南北。而皇胤實無南北。但以神璽所歸爲順而已。烏得與漢土一例視之哉。
新字:我邦南北朝。与漢土南北朝。事体逈別。漢土則南北異姓角立。又各相篡奪。真是判為南北矣。我邦則皇統一姓。宸居雖分南北。而皇胤実無南北。但以神璽所帰為順而已。烏得与漢土一例視之哉。
書き下し
我が邦の南北朝と、漢土の南北朝とは、事体迥かに別なり。漢土は則ち南北異姓角立し、又各相篡奪す。真に是れ判れて南北と為る。我が邦は則ち皇統一姓にして、宸居南北に分かると雖も、而も皇胤は実に南北無し。但だ神璽の帰する所を以て順と為すのみ。烏んぞ漢土と一例に之を視るを得んや。
現代語訳
わが国の南北朝と、中国の南北朝とは、事柄の性質がまるで異なる。中国では、南と北とで姓の異なる王朝が並び立って争い、しかもそれぞれの中で帝位の簒奪が繰り返された。まさしく南と北とに分かれたのである。わが国では皇統は一つの家系であり、天皇のお住まいが南北に分かれたとはいえ、皇室の血筋そのものに南北の別はない。ただ神器の帰属するほうを正統としただけである。どうして中国の場合と同じように見ることができようか。
解説
日本の南北朝時代と中国の南北朝時代の違いを論じた一条です。中国の南北朝は、姓の異なる王朝が南北に並び立ち、それぞれの中でも簒奪が続いた、文字どおりの分裂でした。一方、日本の場合は皇統はもともと一つで、朝廷の所在が分かれただけだと一斎は言います。そして三種の神器のある側を正統とする見方を示しています。これは『大日本史』などに見える南朝正統論の流れに立つもので、江戸後期の儒者の歴史観をよく示しています。次の条で儒者が自国の歴史に暗いことを戒めるのと一続きで、外来の枠組みをそのまま当てはめず、自国の事情に即して考えよという姿勢を読み取ることができます。
この章句が説くこと
歴史観南北朝正統比較国史
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