言志四録 / 言志後録 第百四十三条 聖人の無為無欲
聖人無爲。固以德感。然其所可爲則爲之。聖人無欲。固無私心。然其所可欲則欲之。孟子曰。無爲其所不爲。無欲其所不欲。如此而已矣。
新字:聖人無為。固以徳感。然其所可為則為之。聖人無欲。固無私心。然其所可欲則欲之。孟子曰。無為其所不為。無欲其所不欲。如此而已矣。
書き下し
聖人は無為なり。固より徳を以て感ぜしむ。然れども其の為すべき所は則ち之を為す。聖人は無欲なり。固より私心無し。然れども其の欲すべき所は則ち之を欲す。孟子曰く、「其の為さざる所を為すこと無く、其の欲せざる所を欲すること無し。此くの如きのみ」と。
現代語訳
聖人は無為である。もとより徳によって人を感化する。しかし、なすべきことはなす。聖人は無欲である。もとより私心がない。しかし、欲すべきものは欲する。孟子は「自分がなすべきでないことをなさず、欲すべきでないものを欲しない。ただそれだけのことだ」(尽心上篇)と言っている。
解説
「無為」「無欲」という言葉の誤解を正した一条です。聖人は無為で徳によって人を感化すると言われますが、それは何もしないという意味ではなく、なすべきことはきちんとなす。無欲というのも、何も欲しないのではなく、私心がないだけで、欲すべきものは欲する。一斎はその根拠として『孟子』尽心上篇の「其の為さざる所を為すこと無く、其の欲せざる所を欲すること無し」を引きます。無為・無欲とは、すべきでないことをせず、欲すべきでないものを欲しないという選別の問題だというのです。老荘や仏教的な無為とは一線を画す、儒者としての立場がうかがえます。任せる経営と放任、欲のなさと意欲の欠如の違いを考える手がかりになります。
この章句が説くこと
無為無欲私心聖人選択
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