言志四録 / 言志後録 第百二十二条 名利は悪物に非ず
名利固非惡物。但不可爲己私所累。雖愛好之。亦自有恰好得中處。即天理當然也。凡人情可愛好者何限。而其間亦有小大。有輕重。能權衡之。斯得其中。即天理所在。人只怕己私爲累。名利豈果累人乎。
新字:名利固非悪物。但不可為己私所累。雖愛好之。亦自有恰好得中処。即天理当然也。凡人情可愛好者何限。而其間亦有小大。有軽重。能権衡之。斯得其中。即天理所在。人只怕己私為累。名利豈果累人乎。
書き下し
名利は固より悪物に非ず。但だ己私の累はす所と為るべからず。之を愛好すと雖も、亦自ら恰好中を得る処有り。即ち天理の当然なり。凡そ人情の愛好すべき者何ぞ限らん。而して其の間亦小大有り、軽重有り。能く之を権衡すれば、斯に其の中を得。即ち天理の在る所なり。人は只だ己私の累を為すを怕る。名利豈に果して人を累はさんや。
現代語訳
名誉や利益は、もとより悪いものではない。ただ、自分の私心によってそれに煩わされてはならない。名利を愛し好むとしても、おのずとちょうどよく中を得たところがある。それが天理の当然である。およそ人情として愛し好むものは限りなくあるが、その中にも大小があり、軽重がある。これをよく秤にかけて量れば、そこに中が得られる。それがすなわち天理のあるところである。人はただ、自分の私心が災いとなることを恐れるべきである。名利がどうして本当に人を煩わせることがあろうか。
解説
名誉や利益そのものを悪と決めつけない、現実的な一条です。一斎によれば、名利を好む心も人情の自然であり、問題はそれに私心が絡んで振り回されることにあります。好むものには大小や軽重があり、それをよく「権衡」(秤にかけて量る)すれば、ちょうどよい中が得られる。その中こそが天理だと言います。結びの「名利豈に果して人を累はさんや」は、人を損なうのは名利ではなく自分の私心だという逆転の指摘です。欲望を否定する禁欲論でも、欲望を肯定する功利論でもなく、量り方の問題として捉える点に一斎の均衡感覚が表れています。報酬や評価を求めることに後ろめたさを覚える人にも、それに呑まれがちな人にも、自分の中の秤を点検する材料になります。
この章句が説くこと
名利私心中庸権衡天理
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