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言志四録 / 言志後録 第八十一条 性を情に見る

昔人謂道之大端。在道心人心。而其節目在父子君臣夫婦長幼朋友五者之倫。余謂道心。性也。人心。情也。精一執中。約情於性也。本體。工夫存焉。其著功處。則爲五倫之交。有親義別序信之敎。即感應自然之條理。見性於情也。工夫。本體存焉。後之講道學者。往往馳虛玄。過高妙。悠渺空曠。覓性於言語道斷。心行路絕之際。豈果人倫乎。或爲功利。或爲詞章。則於人倫亦滋遠矣。

新字:昔人謂道之大端。在道心人心。而其節目在父子君臣夫婦長幼朋友五者之倫。余謂道心。性也。人心。情也。精一執中。約情於性也。本体。工夫存焉。其著功処。則為五倫之交。有親義別序信之教。即感応自然之条理。見性於情也。工夫。本体存焉。後之講道学者。往往馳虚玄。過高妙。悠渺空曠。覓性於言語道断。心行路絶之際。豈果人倫乎。或為功利。或為詞章。則於人倫亦滋遠矣。

書き下し

昔人謂ふ、道の大端は道心人心に在りて、其の節目は父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の五者の倫に在りと。余謂ふ、道心は性なり。人心は情なり。精一執中は、情を性に約するなり。本体にして、工夫焉に存す。其の功を著す処は、則ち五倫の交はりと為り、親・義・別・序・信の教有り。即ち感応自然の条理にして、性を情に見るなり。工夫にして、本体焉に存す。後の道学を講ずる者、往往にして虚玄に馳せ、高妙に過ぎ、悠渺空曠、性を言語道断・心行路絶の際に覓む。豈に果して人倫ならんや。或は功利を為し、或は詞章を為すは、則ち人倫に於て亦滋々遠し。

現代語訳

昔の人は、道の大筋は道心と人心にあり、その細目は父子・君臣・夫婦・長幼・朋友という五つの人間関係の道にあると言った。私はこう思う。道心とは性(本性)であり、人心とは情(感情)である。『書経』にいう「精一執中(心を精しく一つにして中を守る)」とは、情を性に引き締めてまとめることである。これは本体(性)に即しつつ、そこに工夫が存しているのである。その功が表に現れるところは五倫の交わりとなり、父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信という教えがある。これは感応のおのずからなる筋道であり、情の中に性を見るものである。これは工夫(実践)の中に本体が存しているのである。後世の道学を講じる者は、しばしば虚ろで玄妙な方へ走り、高尚で神秘的なことに行き過ぎ、はるかにぼんやりとした空漠の中で、言葉も絶え心の働きも及ばない境地に性を探し求めている。それがいったい人の道であろうか。あるいは功利を追い、あるいは詩文の技巧に走る者は、人の道からいっそう遠ざかっている。

解説

「人心は惟れ危ふく、道心は惟れ微なり。惟れ精惟れ一、允に厥の中を執れ」という『書経』大禹謨の句は、朱子学の心の工夫の根本とされてきました。一斎は道心を性、人心を情と置き、情を性に引き寄せることが工夫であると同時に、五倫という具体的な人間関係の中で情が正しく働くとき、そこに性が見えると説きます。本体と工夫は切り離せないというのです。そのうえで、禅の言葉である「言語道断・心行路絶」のような境地に性を求める観念的な学風と、功利や文章の技巧に流れる学風の両方を退けます。本質は日々の人との関わりの中にしか現れないという主張は、理念を掲げるだけでなく現場の関係の中で確かめよという示唆として読めます。

この章句が説くこと

道心人心性情五倫工夫

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