言志四録 / 言志後録 第七十五条 徳に陰陽無し
鄕愿一輩人。有陰德惜福之說。余謂德無陰陽。公爲之而已。其好陰德者。有待於陽報。若無陽報。陰德必不爲。而可乎。禍福亦天來。竟不可求。又不可惜。假令可惜。亦朝三暮四之算耳。究之皆揣摩天數。斷斷不可也。
新字:郷愿一輩人。有陰徳惜福之説。余謂徳無陰陽。公為之而已。其好陰徳者。有待於陽報。若無陽報。陰徳必不為。而可乎。禍福亦天来。竟不可求。又不可惜。仮令可惜。亦朝三暮四之算耳。究之皆揣摩天数。断断不可也。
書き下し
郷愿の一輩の人、陰徳惜福の説有り。余謂ふ、徳に陰陽無し、公に之を為すのみ。其の陰徳を好む者は、陽報を待つ有り。若し陽報無くんば、陰徳必ず為さず。而して可ならんや。禍福も亦天より来る。竟に求むべからず、又惜しむべからず。仮令惜しむべきも、亦朝三暮四の算のみ。之を究むれば皆天数を揣摩するなり。断断として不可なり。
現代語訳
郷愿(うわべだけ善人ぶる村の偽君子)の類の人々には、「人知れず徳を積み(陰徳)、福を惜しんで使い尽くさない(惜福)」という説がある。私は思う、徳に陰も陽もない、ただ公明に行うだけである。陰徳を好む者は、目に見える報い(陽報)を当てにしている。もし陽報がなければ、陰徳など決して行わないだろう。それでよいのだろうか。禍も福もまた天から来るものである。結局こちらから求めることはできず、また惜しむこともできない。たとえ惜しむことができたとしても、それもまた朝三暮四(目先の数合わせにごまかされる猿の話)のような計算にすぎない。突きつめれば、どれも天の定めを推し量って得をしようとするものであり、断じてよくない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『墨子』兼愛下且つ惟だ泰誓のみ然りと為すにあらず、禹誓と雖も即ち亦た猶お是のごときなり。禹曰く、「濟濟たる有衆、咸な朕が言を聴け。惟だ小子のみ敢えて亂を稱するを行うに非ず。蠢たる茲の有苗、天の罰を用う。若し予れ既に爾の羣を率い、羣諸に對して以て有苗を征せん」と。禹の有苗を征するや、富貴を重ね、福禄を干め、耳目を樂しましむるを求むるに非ざるなり。以て天下の利を興し、天下の害を除かんことを求むるなり。即ち此れ禹の兼なり。子墨子の謂う所の兼なる者と雖も、禹に於て求めたり。
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『墨子』非命下是の故に子墨子曰く、今、天下の君子の文章を為り言談を出だすは、将に其の頰舌を勤勞し、其の唇呡を利せんとするに非ざるなり。中に實に将に其の國家邑里萬民の刑政を為さんと欲する者なり。今や王公大人の早く朝し晏く退き、獄を聴き政を治め、終朝、均しく分かちて敢えて怠倦せざる所以の者は、何ぞや。曰く、彼れ以為えらく强ければ必ず治まり、强からざれば必ず亂れ、强ければ必ず寕く、强からざれば必ず危うしと。故に敢えて怠倦せず。
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司馬法・嚴位凡そ人は、愛に死し、怒りに死し、威に死し、義に死し、利に死す。
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論語・憲問篇微生畝、孔子に謂いて曰く、「丘、何為れぞ是れ栖栖たる者ぞ。乃ち佞を為すこと無からんや。」孔子曰く、「敢えて佞を為すに非ざるなり、固を疾むなり。」
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『墨子』非攻下則ち夫の攻伐を好むの君、又た其の説を飾りて曰く、我れ金玉子女壤地を以て足らずと為すに非ざるなり。我れ義の名を以て天下に立て、徳を以て諸侯を來さんと欲するなり、と。子墨子曰く、今、若し能く義の名を以て天下に立て、徳を以て諸侯を來す者有らば、天下の服すること立ちどころに待つ可きなり。夫れ天下、攻伐に處ること久し。譬うるに猶お傅子の馬を為るが然り。
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