言志四録 / 言志後録 第七十三条 聖人の遊観は学に非ざるは無し
孔子在川上嘆逝者。過滄浪感孺子。遊舞雩善樊遲。與浴沂於曾點。登東山小魯國。登泰山藐天下。聖人遊觀。無非學也。
新字:孔子在川上嘆逝者。過滄浪感孺子。遊舞雩善樊遅。与浴沂於曽点。登東山小魯国。登泰山藐天下。聖人遊観。無非学也。
書き下し
孔子川上に在りて逝く者を嘆じ、滄浪を過ぎて孺子に感じ、舞雩に遊びて樊遅を善みし、沂に浴するを曾点に与し、東山に登りて魯国を小とし、泰山に登りて天下を藐んず。聖人の遊観は、学に非ざるは無きなり。
現代語訳
孔子は川のほとりで、過ぎ去るものはこの流れのようだと嘆じ、滄浪の水のほとりを通ったときには子どもの歌に感じ入り、舞雩(雨乞いの壇)のあたりに遊んだときには樊遅(弟子)の問いを褒め、沂水で水浴びしたいと言った曾点(弟子)の志に賛同し、東山に登っては魯の国を小さいと感じ、泰山に登っては天下を小さいと見た。聖人が遊び、景色を眺めることは、すべて学問でないものはないのである。
解説
孔子が川や山、野遊びの場で得た感慨や言葉を、典拠を連ねて並べた一条です。「逝く者は斯くの如きか」は『論語』子罕篇、滄浪の孺子の歌は『孟子』離婁篇、舞雩での樊遅への「善い哉問ひや」は顔淵篇、沂水に浴したいという曾点の志への賛同は先進篇、東山と泰山の話は『孟子』尽心篇に見えます。一斎が言いたいのは、聖人にとって書物に向かう時間だけが学問ではなく、散策も眺望も、人との何気ない会話も学びになるということです。次の条の「遠游艱難」と対になっています。机の上だけで考えが煮詰まったとき、外に出て歩くことも仕事の一部だと考えてよいのかもしれません。
この章句が説くこと
学問遊観自然孔子体験
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