言志四録 / 言志後録 第五十六条 芸能の理は易理
余固無藝無能。然不厭人之有藝能。毎諦觀之。但見其理無非易理。
新字:余固無芸無能。然不厭人之有芸能。毎諦観之。但見其理無非易理。
書き下し
余は固より無芸無能なり。然れども人の芸能有るを厭はず。毎に之を諦観すれば、但だ其の理の易理に非ざる無きを見る。
現代語訳
私はもとより何の芸も能もない。しかし人が芸や技能を持っているのを嫌がりはしない。いつもそれをじっくり見ていると、ただその道理がすべて易の道理にかなっていることがわかる。
解説
自分は無芸無能だと謙遜しつつ、人の芸や技を見るのは好きだと語る一条です。書画や武芸、茶や花、職人の技などを思い浮かべるとよいでしょう。一斎はそれらをじっくり観察し、そこに働いている理は、どれも易の理、すなわち陰陽の消長や変化の道理にほかならないと見て取ります。剛柔の加減、動と静、張ると緩めるの呼吸など、優れた技には必ず陰陽の調和がある、ということです。学問を書物の中に閉じ込めず、あらゆる営みのうちに同じ道理を見出そうとする一斎の姿勢がよく表れています。分野の違う人の仕事ぶりから、自分の仕事に通じる原理を学ぶ視点を示してくれます。
この章句が説くこと
易芸能観察陰陽学び
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