言志四録 / 言志後録 第十一条 人我に負く時は自ら反る
寧人負我毋我負人。固爲確言。余亦謂。人負我時。我當思吾之所以致負以自反。且以爲切瑳砥礪之地。於我多少有益。烏容仇視之。
新字:寧人負我毋我負人。固為確言。余亦謂。人負我時。我当思吾之所以致負以自反。且以為切瑳砥礪之地。於我多少有益。烏容仇視之。
書き下し
「寧ろ人我に負くとも、我人に負くこと毋かれ」とは、固より確言たり。余も亦謂ふ、人我に負く時は、我当に吾の負くを致す所以を思ひて以て自ら反り、且つ以て切磋砥礪の地と為すべし。我に於て多少の益有り。烏んぞ之を仇視するを容れんや。
現代語訳
「たとえ人が自分を裏切ることがあっても、自分は人を裏切ってはならない」というのは、もとより確かな言葉である。私はさらにこう言いたい。人が自分を裏切ったときは、自分がなぜ裏切られるようなことを招いたのかを考えて自らを省み、さらにそれを自分を磨き鍛える場とすべきである。そうすれば自分にとっていくらかの益がある。どうしてその人を仇のように見る必要があろうか。
解説
「寧ろ我人に負くとも、人我に負くこと毋かれ」という曹操の言葉として知られる句を、逆にした格言が冒頭に置かれています。人に裏切られても自分は裏切らない、という心構えを一斎は正しいと認め、さらに一歩進めます。裏切られたときは、なぜそうなったかを自分の側に問い、「切磋砥礪」、つまり自分を磨く砥石にせよ、と言うのです。相手を恨んで終わるのではなく、自分の糧にしてしまう。『孟子』の「行ひて得ざる者有らば、皆反りて諸を己に求む」にも通じる自反の姿勢です。取引先や同僚に約束を破られたとき、怒りの矛先をどこに向けるか。自分の見る目や関わり方を見直す機会として受け止められるかを考えさせます。
この章句が説くこと
自反寛容切磋琢磨信義人間関係
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