長短経 / 臣行
故《禮》曰、欲不可縱、志不可滿。”古語云、“廉士非不愛財、取之以道。”《詩》云、“如切如磋、如琢如磨。”皆矯偽之謂也。若肆其愚態、隨其鄙情、名曰任真而賢之、此先王之罪人也。故吾以為矯偽者、禮義之端、任真者、貪鄙之主。夫强仁者、庸可誣乎?〕
新字:故《礼》曰、欲不可縦、志不可満。”古語云、“廉士非不愛財、取之以道。”《詩》云、“如切如磋、如琢如磨。”皆矯偽之謂也。若肆其愚態、随其鄙情、名曰任真而賢之、此先王之罪人也。故吾以為矯偽者、礼義之端、任真者、貪鄙之主。夫強仁者、庸可誣乎?〕
書き下し
故に礼に曰く『欲は縦にす可からず、志は満たす可からず』と。古語に云う「廉士は財を愛せざるに非ず。之を取るに道を以てす」と。詩に云う「切するが如く磋するが如く、琢するが如く磨するが如し」と。皆な矯偽の謂いなり。若し其の愚態を肆にし、其の鄙情に随い、名づけて任真と曰いて之を賢とせば、此れ先王の罪人なり。故に吾れ以為えらく、矯偽なる者は礼義の端なり。任真なる者は貪鄙の主なり。夫れ強いて仁する者、庸ぞ誣う可けんや。〕
現代語訳
だから礼記にこうある。『欲は思うままにしてはならない、志は満たしきってはならない』。古い言葉にこうある。「清廉の士は財を愛さないのではない。取るときに道によるのである」。詩経にこうある。「切るように磋くように、琢つように磨くように」。これらはみな情を矯めることを言っている。もし愚かな態度を思うままにし、卑しい心に従って、それをありのままと名づけて賢しとするなら、これは先王に対する罪人である。だから私はこう考える。矯め偽ることは礼義の始まりであり、ありのままに任せることは貪り卑しむことの親玉である。無理にでも仁を行う者を、どうして誣いることができようか。〕
解説
清廉の士は財を愛さないのではない、取り方に道があるだけだ。この一句が救いです。欲がないふりをしなくてよい。欲はあるまま、取り方だけを律する。切磋琢磨という有名な四字も、ここでは情を矯める作業として読まれています。無理にでも仁を行う人を、偽善だと笑ってはいけない。無理をしているうちは本物ではない、という批判に対する、しっかりした反論になっています。
この章句が説くこと
臣行矯偽切磋琢磨廉士欲礼義
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