言志四録 / 言志録 第二百十二条 吾が躯は父母なり
吾靜夜獨思。吾軀一毛一髪。一喘一息。皆父母也。一視一聽。一寢一食。皆父母也。既知吾軀之爲父母。又知我子之爲吾軀。則推而上之。祖曾高無非我也。遞而下之。孫曾玄無非我也。聖人親九族。其起念頭處。葢在此。
新字:吾静夜独思。吾躯一毛一髪。一喘一息。皆父母也。一視一聴。一寝一食。皆父母也。既知吾躯之為父母。又知我子之為吾躯。則推而上之。祖曽高無非我也。逓而下之。孫曽玄無非我也。聖人親九族。其起念頭処。葢在此。
書き下し
吾静夜独り思ふ、吾が躯の一毛一髪、一喘一息、皆父母なり。一視一聴、一寝一食、皆父母なり。既に吾が躯の父母たるを知り、又我が子の吾が躯たるを知らば、則ち推して之を上れば、祖・曾・高も我に非ざるは無し。逓して之を下れば、孫・曾・玄も我に非ざるは無し。聖人の九族を親しむ、其の念頭を起こす処、蓋し此に在り。
現代語訳
私は静かな夜に一人思う。自分の体の毛一本、髪一筋、息のひとつひとつ、みな父母である。見ること聞くこと、寝ること食べることのひとつひとつ、みな父母である。自分の体が父母であることを知り、また自分の子が自分の体であることを知れば、さかのぼっていけば、祖父・曾祖父・高祖父も自分でないものはない。順に下っていけば、孫・曾孫・玄孫も自分でないものはない。聖人が九族(高祖父から玄孫までの一族)を親しんだ(『書経』堯典)のも、その思いの起こるところは、おそらくここにあるのであろう。
解説
前条の、親の身と自分の身は一つだという考えを、さらに上下の世代へと広げた一条です。静かな夜、自分の髪の毛一本、呼吸の一つにまで父母を感じとる一斎の感覚は、観念ではなく身体の実感として語られています。そこから、祖父母、曾祖父母、高祖父母も自分であり、子や孫、曾孫、玄孫もまた自分であるという連なりが見えてくる。『書経』堯典の「九族を親しむ」は、この連なりの実感から出たものだと一斎は言います。自分を一代限りの存在ではなく、長い系譜の一点と見る視点です。組織や事業を先人から受け継ぎ、後に続く人へ手渡すものとして捉えると、日々の判断の重みも違って見えてくるかもしれません。
この章句が説くこと
孝系譜九族つながり
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