言志四録 / 言志録 第百四十二条 聖賢の精神尚存す
吾方讀書。一想古昔聖賢豪傑體魄皆死。則俯首感愴。一想聖賢豪傑精神尙存。則開眼憤興。
新字:吾方読書。一想古昔聖賢豪傑体魄皆死。則俯首感愴。一想聖賢豪傑精神尚存。則開眼憤興。
書き下し
吾方に書を読むとき、一たび古昔の聖賢豪傑の体魄皆死せるを想へば、則ち首を俯して感愴す。一たび聖賢豪傑の精神尚ほ存するを想へば、則ち眼を開きて憤興す。
現代語訳
私が書物を読んでいるとき、ふと昔の聖賢や豪傑の肉体がみな死んでしまったことを思うと、うなだれて悲しみに沈む。しかしふと聖賢や豪傑の精神は今なお存していることを思うと、目を見開いて奮い立つ。
解説
書物を読むときの心の揺れを率直に記した一条です。古人の身体はとうに滅んでいると思えば、うなだれて哀しみにとらわれる。しかし彼らの精神は書物の中に今も生きていると思えば、目を開いて奮い立つ。直前の条で死生を論じた一斎が、ここでは死を越えて残るものに目を向けています。読書とは、死んだ人の記録をたどることではなく、生きた精神と向き合うことだという実感がこもっています。次の条の「古往の歴史は是れ現世界」にもつながる考えです。先人の書いたものを読むとき、情報として消費するのか、その人と対話するつもりで読むのかを考えさせます。
この章句が説くこと
読書精神尚友発憤死生
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