言志四録 / 言志録 第七十七条 古楽は亡びざる能はず
古樂不能不亡。樂其始於何世。果前乎聖人歟。若有待於聖人而後作。則其人旣亡。而其所作安能獨保久遠。聖人德之精英。發而爲樂。乃被之管絃。諧之簫磬。使聽者如親炙之。則樂之感召。以其德之寓於此也。今去聖既遠。傳之者非其人。其漸致差繆。遂以亡。亦理勢之必然。韶之傳於齊。孔子深契於心。然恐已非當時之全。但其遺音尙足以感人。而今亦遂亡矣。凡天地間事物。生者皆死。金鐵亦滅。况乎寓於物者。能保久遠乎。故曰。古樂不能不亡。但至於元聲太和。存於天地人心者。則前乎聖人。後乎聖人。未甞有始終焉。是亦不可不知。
新字:古楽不能不亡。楽其始於何世。果前乎聖人歟。若有待於聖人而後作。則其人既亡。而其所作安能独保久遠。聖人徳之精英。発而為楽。乃被之管絃。諧之簫磬。使聴者如親炙之。則楽之感召。以其徳之寓於此也。今去聖既遠。伝之者非其人。其漸致差繆。遂以亡。亦理勢之必然。韶之伝於斉。孔子深契於心。然恐已非当時之全。但其遺音尚足以感人。而今亦遂亡矣。凡天地間事物。生者皆死。金鉄亦滅。況乎寓於物者。能保久遠乎。故曰。古楽不能不亡。但至於元声太和。存於天地人心者。則前乎聖人。後乎聖人。未甞有始終焉。是亦不可不知。
書き下し
古楽は亡びざること能はず。楽は其れ何れの世に始まるか。果して聖人に前だつか。若し聖人を待ちて而る後に作らば、則ち其の人既に亡びて、其の作る所安んぞ能く独り久遠を保たんや。聖人の徳の精英、発して楽と為り、乃ち之を管絃に被らせ、之を簫磬に諧へ、聴く者をして之に親炙するが如くならしむ。則ち楽の感召は、其の徳の此に寓するを以てなり。今聖を去ること既に遠く、之を伝ふる者其の人に非ず。其の漸く差繆を致し、遂に以て亡ぶるは、亦理勢の必然なり。韶の斉に伝はるや、孔子深く心に契ふ。然れども恐らくは已に当時の全きに非ず。但だ其の遺音尚ほ以て人を感ぜしむるに足る。而して今亦遂に亡びたり。凡そ天地間の事物、生ずる者は皆死し、金鉄も亦滅す。況んや物に寓する者、能く久遠を保たんや。故に曰く、古楽は亡びざること能はずと。但だ元声太和の、天地人心に存する者に至りては、則ち聖人に前だち、聖人に後るるも、未だ嘗て始終有らず。是れも亦知らざるべからず。
現代語訳
古代の音楽は、滅びないわけにはいかない。音楽はいったいどの時代に始まったのか。はたして聖人より前からあったのか。もし聖人が現れるのを待ってはじめて作られたのなら、その人はすでに亡くなっているのだから、その作ったものだけがどうして長く保たれようか。聖人の徳の精華があふれ出て音楽となり、それを笛や琴に乗せ、簫や磬(石の打楽器)の響きに調和させて、聴く者にまるで聖人にじかに接しているかのように感じさせた。つまり音楽が人を感動させるのは、聖人の徳がそこに宿っているからである。今や聖人の時代からすでに遠く隔たり、これを伝える者もふさわしい人物ではない。次第に誤りが生じ、ついに滅びてしまったのも、道理と勢いの上で必然である。舜の音楽である韶が斉の国に伝わっていたとき、孔子はそれを聞いて深く心にかなうものを感じた。しかしそれもおそらく、すでに作られた当時の完全なものではなかったろう。ただ、その残された響きでさえ、なお人を感動させるに足るものであった。そしてそれも今ではついに滅びてしまった。およそ天地の間の事物は、生まれたものはみな死に、金属や鉄さえも滅びる。まして物に宿っているものが、どうして長く保たれようか。だから、古代の音楽は滅びないわけにはいかないと言うのである。ただし、音楽のおおもとの声、大いなる調和として天地と人の心に存在するものについては、聖人より前にも、聖人より後にも、始まりも終わりもあったことはない。このこともまた知っておかなければならない。
解説
この章句が説くこと
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