言志四録 / 言志録 第七十五条 歓楽発揚の処無かるべからず
人心不可無歡樂發揚處。故王者出世。必作樂以敎之。使人心有所寄。樂不至淫。和不至流。風移俗易。斯無邪慝矣。當今所傳雅俗樂部。雖並無移風易俗之用。而士君子爲之。亦無不可。至如坊間詞曲。多是淫哇巴歈。有損無益。但舍此則都鄙男女。無所可寄以歡樂發揚。勢亦不可繳停之。譬諸病。發揚。表也。抑鬱。裏也。擊表則入裏。不可救也。不若姑緩其表。以防內攻。此爲政者之所宜知。
新字:人心不可無歓楽発揚処。故王者出世。必作楽以教之。使人心有所寄。楽不至淫。和不至流。風移俗易。斯無邪慝矣。当今所伝雅俗楽部。雖並無移風易俗之用。而士君子為之。亦無不可。至如坊間詞曲。多是淫哇巴歈。有損無益。但舎此則都鄙男女。無所可寄以歓楽発揚。勢亦不可繳停之。譬諸病。発揚。表也。抑鬱。裏也。撃表則入裏。不可救也。不若姑緩其表。以防内攻。此為政者之所宜知。
書き下し
人心は歓楽発揚の処無かるべからず。故に王者世に出づれば、必ず楽を作りて以て之を教へ、人心をして寄する所有らしむ。楽しみて淫するに至らず、和して流るるに至らず、風移り俗易はりて、斯に邪慝無し。当今伝ふる所の雅俗の楽部は、並びに移風易俗の用無しと雖も、而も士君子之を為すも、亦不可なること無し。坊間の詞曲の如きに至りては、多く是れ淫哇巴歈にして、損有りて益無し。但だ此れを舎つれば、則ち都鄙の男女、以て歓楽発揚を寄すべき所無し。勢亦之を繳停すべからず。諸を病に譬ふれば、発揚は表なり、抑鬱は裏なり。表を撃てば則ち裏に入りて、救ふべからざるなり。姑く其の表を緩めて、以て内攻を防ぐに若かず。此れ政を為す者の宜しく知るべき所なり。
現代語訳
人の心には、喜び楽しんで気を晴らす場がなくてはならない。だから王者が世に出れば、必ず音楽を作ってこれによって人々を教え導き、人の心に寄りどころを持たせた。楽しんでもみだらにならず、和やかでも流されることがなく、風俗が移り変わって善くなり、そこでよこしまなことがなくなるのである。今日伝わっている雅楽や俗楽の類は、どれも風俗を改める働きはないけれども、士君子がこれをたしなむのも、いけないことではない。町なかの歌謡などに至っては、多くはみだらで卑俗な歌であり、害があって益がない。しかしこれを捨ててしまえば、都会や田舎の男女は、喜び楽しみ気を晴らす寄りどころがなくなる。勢いとしてもこれを差し止めることはできない。病気にたとえれば、発散は表(体の表面)であり、鬱屈は裏(体の内部)である。表を攻めれば病は裏に入り込み、救いようがなくなる。しばらく表をゆるめて、病が内に攻め入るのを防ぐにこしたことはない。これは政治を行う者が知っておくべきことである。
解説
この章句が説くこと
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