導師導古典を学びたいすべての人に

学則 / 對西肥水秀才問

承問。書數二技。誠民用之大者。如足下之言。但六蓺之書。識字形與音耳。豈後世書學者流比哉。然禮樂主觀美。考工記所載。鍾簴諸器。亦欲精工。則字形媺惡。古亦當論之定其工拙。是常情也。不佞觀博古圖所載鼎彝古文。其古雅不可言。較諸後世名書家篆籀。逈別。譬諸近體李杜詩與三百篇。非不美矣。只好尙不同耳。如字學者流。不佞所惡也。其辨正僞覈偏傍其拘矣。甚者如正字通諸書。乃至於止注譌字而不注爲何譌字。字音轉者。亦以己心掃而去之。是安在其爲字書乎。魏校六書精蘊。以點畫說性命之理鑿哉。是皆不識六書本旨者。其陋可醜。

新字:承問。書数二技。誠民用之大者。如足下之言。但六蓺之書。識字形与音耳。豈後世書学者流比哉。然礼楽主観美。考工記所載。鍾簴諸器。亦欲精工。則字形媺悪。古亦当論之定其工拙。是常情也。不佞観博古図所載鼎彝古文。其古雅不可言。較諸後世名書家篆籀。逈別。譬諸近体李杜詩与三百篇。非不美矣。只好尚不同耳。如字学者流。不佞所悪也。其弁正偽覈偏傍其拘矣。甚者如正字通諸書。乃至於止注譌字而不注為何譌字。字音転者。亦以己心掃而去之。是安在其為字書乎。魏校六書精蘊。以点画説性命之理鑿哉。是皆不識六書本旨者。其陋可醜。

書き下し

問ふを承く。書・数の二技は、誠に民用の大なる者なりと。足下の言の如し。但だ六芸の書は、字の形と音とを識るのみ。豈に後世の書学者流の比ならんや。然れども礼楽は観美を主とす。考工記に載する所の鍾簴の諸器も、亦た精工ならんことを欲す。則ち字形の媺悪も、古も亦た当に之を論じて其の工拙を定むべし。是れ常情なり。不佞博古図に載する所の鼎彝の古文を観るに、其の古雅言ふべからず。諸を後世の名書家の篆籀に較ぶるに、逈かに別なり。諸を近体の李杜の詩と三百篇とに譬ふ。美ならざるに非ず。只だ好尚同じからざるのみ。字学者流の如きは、不佞の悪む所なり。其の正偽を弁じ偏旁を覈するは、其れ拘なり。甚だしき者は正字通の諸書の如き、乃ち止だ譌字と注して何の譌字為るかを注せざるに至る。字音の転ずる者も、亦た己の心を以て掃ひて之を去る。是れ安くに其の字書たるもの在らんや。魏校の六書精蘊は、点画を以て性命の理を説く。鑿なるかな。是れ皆六書の本旨を識らざる者にして、其の陋醜づべし。

現代語訳

お尋ねを承った。「書と数の二つの技は、まことに民の役に立つ大事なものだ」とのこと、あなたの言うとおりである。ただ六芸の「書」は、字の形と音を知ることにすぎない。後世の書道家の類とは比べものにならない。しかし礼楽は見た目の美しさを重んじる。『周礼』考工記に載っている鐘を掛ける台などの器物も、精巧であることが求められた。とすれば字形の美醜についても、古でも当然それを論じて巧拙を定めたはずである。それが人の常の情である。私が『博古図』に載る鼎や彝(青銅の祭器)の古い文字を見ると、その古雅さは言葉にならない。後世の名書家の篆書・籀文と比べても、まるで別物である。たとえれば、近体詩の李白・杜甫の詩と『詩経』三百篇のようなものである。(後世の書も)美しくないわけではない。ただ好みが違うだけだ。字学者の類は、私の嫌うところである。字の正誤を論じ、偏や旁を詮索するのは窮屈である。ひどいものになると、『正字通』などの書物のように、ただ「誤字」と注するだけで、何の誤字なのかを注さないものまである。字音が転じたものも、自分の心で判断して一掃してしまう。これでどこが字書だというのか。魏校の『六書精蘊』は、点画によって性命の理を説いている。こじつけもはなはだしい。これらはみな六書の本来の趣旨を知らない者たちで、その浅はかさは恥ずべきものである。

解説

第五条は書と数である。書数は民の役に立つ大事な技だという相手に同意しつつ、徂徠は六芸の書は字の形と音を知ることだと押さえる。ただ礼楽は見た目の美を重んじたから、古でも字形の巧拙は論じられたはずで、鼎彝の古文の古雅さは後世の名筆とまるで別物だという。一方、字の正誤や偏旁を詮索する字学者や、点画に性命の理を読み込む『六書精蘊』は、六書の本旨を知らないと退ける。実用と美、正確さと窮屈さの線引きは難しい。規則を守ること自体が目的になったとき、仕事の本旨は見失われる。

この章句が説くこと

六芸書文字礼楽古雅字学

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る