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学則 / 對西肥水秀才問

足下紬詩爲琴歌。紬書爲古史。詩乃彈琴可歌。書亦史官所錄。豈足以此病二者邪。至於以書爲文字之學則大不然矣。論語曰。何必讀書。易傳曰。書不盡言。言不盡意。然則聖人之意不可見乎。孟子曰。盡信書。豈可以文字之學爲書哉。如易春秋。則觀韓宣子之言乃魯國所傳。故孔門傳之。而其實非樂正四敎廣被天下者比。故論語孟荀晏墨諸書。不多引用。其非士子通用者審矣。

新字:足下紬詩為琴歌。紬書為古史。詩乃弾琴可歌。書亦史官所録。豈足以此病二者邪。至於以書為文字之学則大不然矣。論語曰。何必読書。易伝曰。書不尽言。言不尽意。然則聖人之意不可見乎。孟子曰。尽信書。豈可以文字之学為書哉。如易春秋。則観韓宣子之言乃魯国所伝。故孔門伝之。而其実非楽正四教広被天下者比。故論語孟荀晏墨諸書。不多引用。其非士子通用者審矣。

書き下し

足下、詩を紬ねて琴歌と為し、書を紬ねて古史と為す。詩は乃ち琴を弾じて歌ふべく、書も亦た史官の録する所なり。豈に此を以て二者を病ましむるに足らんや。書を以て文字の学と為すに至りては、則ち大いに然らず。論語に曰く、何ぞ必ずしも書を読まんと。易伝に曰く、書は言を尽くさず、言は意を尽くさず。然らば則ち聖人の意は見るべからざるかと。孟子曰く、尽く書を信ずと。豈に文字の学を以て書と為すべけんや。易・春秋の如きは、則ち韓宣子の言を観るに、乃ち魯国の伝ふる所なり。故に孔門之を伝ふ。而れども其の実は楽正の四教の広く天下に被る者の比に非ず。故に論語・孟・荀・晏・墨の諸書、多く引用せず。其の士子の通用する者に非ざること審かなり。

現代語訳

あなたは『詩』をつきつめて琴の歌とし、『書』をつきつめて古代の歴史の記録とされる。『詩』は琴を弾いて歌えるものであり、『書』も史官が記録したものである。どうしてそのことが二書の価値を損なうことになろうか。しかし『書』を文字の学問とするに至っては、大いに違う。『論語』に「どうして書を読むことだけが学問であろうか」とあり、『易伝』に「書は言葉を尽くさず、言葉は意を尽くさない。それなら聖人の意は見ることができないのか」とある。『孟子』には「書をすべて信じるなら(書が無いほうがましだ)」とある。どうして文字の学問をもって「書」とすることができようか。『易』と『春秋』については、韓宣子(晋の大夫)の言葉を見ると、魯の国に伝わっていたものである。だから孔子の門下がこれを伝えた。しかし実際には、楽正の四教のように広く天下に行き渡っていたものとは比べものにならない。だから『論語』や孟子・荀子・晏子・墨子などの書物も、あまり引用していない。それが士人に広く用いられていたものでないことは明らかである。

解説

詩は琴の歌、書は古代の史官の記録だという相手の見方を、徂徠はそれで二経の価値が損なわれるわけではないと受け止める。ただし書を文字の学とする説には強く反対し、『論語』『易伝』『孟子』の語を引いて、書が文字そのものを学ぶものではないことを示す。また易と春秋は、韓宣子の言にあるように魯に伝わった書で、天下に広く行われた四教とは違うから、諸子もあまり引かないという。何が当時の共通教材だったかを引用の多さから見極める実証の手つきである。情報の出どころと広がりを確かめる姿勢は、今も変わらず大切である。

この章句が説くこと

詩書易春秋四教経書文字

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