学則 / 對西肥水秀才問
承問。禮樂古未必有書。以樂正四術四敎證之。是亦卓見。足破後世膠固之習。不佞嘗謂。四敎云者。詩則諷詠。書則誦讀。禮則節文度數。樂則歌舞八音。其爲敎各別。而大非後世專以挾策爲敎者比。後世乃專以讀書講理爲學。故其於四者。亦皆以讀書之法求之。所以不得先王敎法之妙也。如以詩爲勸善懲惡之設。以金聲玉振疑爲樂經殘簡者。信如足下所指擿也。
新字:承問。礼楽古未必有書。以楽正四術四教証之。是亦卓見。足破後世膠固之習。不佞嘗謂。四教云者。詩則諷詠。書則誦読。礼則節文度数。楽則歌舞八音。其為教各別。而大非後世専以挟策為教者比。後世乃専以読書講理為学。故其於四者。亦皆以読書之法求之。所以不得先王教法之妙也。如以詩為勧善懲悪之設。以金声玉振疑為楽経残簡者。信如足下所指擿也。
書き下し
問ふを承く。礼楽は古未だ必ずしも書有らず、楽正の四術四教を以て之を証すと。是れ亦た卓見にして、後世膠固の習ひを破るに足る。不佞嘗て謂へらく、四教と云ふ者は、詩は則ち諷詠し、書は則ち誦読し、礼は則ち節文度数、楽は則ち歌舞八音、其の教へたる各〻別にして、大いに後世の専ら策を挟むを以て教へと為す者の比に非ず。後世は乃ち専ら読書講理を以て学と為す。故に其の四者に於けるも、亦た皆読書の法を以て之を求む。先王の教法の妙を得ざる所以なり。詩を以て勧善懲悪の設と為し、金声玉振を以て疑ひて楽経の残簡と為すが如き者は、信に足下の指擿する所の如し。
現代語訳
お尋ねを承った。「礼楽にはもともと必ずしも書物があったわけではない。それは楽正(教育を司る官)の四術四教から証明できる」というお説である。これもまた卓見で、後世の凝り固まった習わしを打ち破るに足る。私はかねてこう考えてきた。四教というのは、詩は節をつけて詠い、書は声に出して読み、礼は作法の節度と数量、楽は歌舞と八種の楽器であって、教え方がそれぞれ違い、後世のもっぱら書物を抱えて教えるやり方とはまるで比べものにならない。後世はもっぱら書物を読み理を講じることを学問とした。だから四つの教えについても、みな読書のやり方で求めた。それが先王の教え方の妙を会得できなかった理由である。『詩』を善を勧め悪を懲らすために作られたものとしたり、「金声玉振」(『孟子』の語)を『楽経』の残りの断片ではないかと疑ったりするのは、まことにあなたの指摘どおり(の誤り)である。
解説
この章句が説くこと
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『学則』對西肥水秀才問問ふを承く。先王の教へは、詩・書・礼・楽に過ぎず、各〻其の徳を成し、各〻其の材を達す。而るに後世の経生文士の習ひは、此と相反し、治と教と撰を異にし、儒と吏と用を殊にすと。此れ自ら足下の卓見にして、深く鄙衷に愜ふ。不佞は中年にして始めて旧習を祛ふ。足下は妙齢にして既に能く之を言ふ。何ぞ其の有智無智の相挍ること此に至るや。後生畏るべし。豈に信ならずや。
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『学則』對西肥水秀才問孔子以前の如きは、則ち詩は人の口に存し、礼楽は皆人を以て之を伝ふ。所謂文武の道未だ地に墜ちずして人に在りとは是れなり。是れ皆未だ嘗て書有らざる者なること審かなり。而して礼の書有るは、孔門より始まる。其の事戴記に見ゆ。今儀礼十七篇を観るに、直に升降進退器数の詳を録して、未だ嘗て義理を言はず、後儒の見る所に逈かに異なれば、則ち所謂礼経なる者は、真なるのみ。此を以て之を推すに、楽も亦た譜のみ。祇だ古譜亡失す。故に楽亡ぶと謂ふ者も、非と謂ふべからざるなり。詩も亦た孔門に至りて始めて諸を簡策に載す。書は則ち史官の録する所にして、古より之有り。蓋し古は它の書無く、書は唯だ是のみ。故に専ら書の名を得たり。論語・易伝・左氏・戴記・家語・孟・荀・晏・墨の諸家の引く所の詩書は、今存する者と適ま同じ。則ち其の古経たること、豈に疑ひを容れんや。
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『学則』對西肥水秀才問士の今に生まるる、礼残はれ楽亡ぶ。之を如何ともする無し。苟も聖人復た生まるるに非ずんば、孰か能く制作せん。故に学者は唯だ能く詩書と礼とに涵濡し、優游厭飫し、久しくして之に化し、習ひて以て性と成らば、而ち徳慧術知、此に由りて以て出づ。則ち其の見る所、習俗泱涊の中に濯然として、庶はくは以て悖らざるに足らんのみ。伝に曰く、詩書は義の府なり。礼楽は徳の則なりと。不佞謂へらく、詩書は辞なり。礼楽は事なり。義は辞に存し、礼は事に在り。故に学問の要は、卑く諸を辞と事とに求めて、高く諸を性命の微、議論の精に求めざれば、則ち憑拠する所有りて、後世の紕繆の所在を識るべし。爾らずんば、徒らに己の心と理とを以て之を言ひ、泛然として底止すること莫きのみ。
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『学則』對西肥水秀才問不佞謂へらく、孔門の四科にも、亦た政事に長ずる者有り、文学を善くする者有り。人の材は、豈に後世と殊ならんや。各〻性を以て異なる。是れ正に所謂徳を成し材を達する者なり。而して其の学は、一に詩・書・礼・楽に在り。是れ其の後世と殊なる所なり。蓋し古の学者は、皆礼楽を以て其の徳を成し、之を均しくするに君子人なり。而して其の政事・文章は、皆詩書より出づ。聖人の道に悖らざる所以なり。
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『学則』對西肥水秀才問足下、詩を紬ねて琴歌と為し、書を紬ねて古史と為す。詩は乃ち琴を弾じて歌ふべく、書も亦た史官の録する所なり。豈に此を以て二者を病ましむるに足らんや。書を以て文字の学と為すに至りては、則ち大いに然らず。論語に曰く、何ぞ必ずしも書を読まんと。易伝に曰く、書は言を尽くさず、言は意を尽くさず。然らば則ち聖人の意は見るべからざるかと。孟子曰く、尽く書を信ずと。豈に文字の学を以て書と為すべけんや。易・春秋の如きは、則ち韓宣子の言を観るに、乃ち魯国の伝ふる所なり。故に孔門之を伝ふ。而れども其の実は楽正の四教の広く天下に被る者の比に非ず。故に論語・孟・荀・晏・墨の諸書、多く引用せず。其の士子の通用する者に非ざること審かなり。
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『学則』對西肥水秀才問問ふを承く。書・数の二技は、誠に民用の大なる者なりと。足下の言の如し。但だ六芸の書は、字の形と音とを識るのみ。豈に後世の書学者流の比ならんや。然れども礼楽は観美を主とす。考工記に載する所の鍾簴の諸器も、亦た精工ならんことを欲す。則ち字形の媺悪も、古も亦た当に之を論じて其の工拙を定むべし。是れ常情なり。不佞博古図に載する所の鼎彝の古文を観るに、其の古雅言ふべからず。諸を後世の名書家の篆籀に較ぶるに、逈かに別なり。諸を近体の李杜の詩と三百篇とに譬ふ。美ならざるに非ず。只だ好尚同じからざるのみ。字学者流の如きは、不佞の悪む所なり。其の正偽を弁じ偏旁を覈するは、其れ拘なり。甚だしき者は正字通の諸書の如き、乃ち止だ譌字と注して何の譌字為るかを注せざるに至る。字音の転ずる者も、亦た己の心を以て掃ひて之を去る。是れ安くに其の字書たるもの在らんや。魏校の六書精蘊は、点画を以て性命の理を説く。鑿なるかな。是れ皆六書の本旨を識らざる者にして、其の陋醜づべし。
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