学則 / 對西肥水秀才問
如蔡西山變黃鍾。亦妄說。何則律有十二者。以隔八相生。終而復始。循環無端也。若以變黃鍾則其數至數十百千萬莫有底止。其以爲十二者。非自然之數矣。其誤起自不識圜數已。又如本邦一越最長。則有說存矣。古歌吹殊調。歌黃鍾必吹一越。故堂下樂以爲記號後人不識。直以爲律名故爾。樂家此類極多。不足怪已。既以一越和黃鍾。則其管最長。亦其所也。
新字:如蔡西山変黄鍾。亦妄説。何則律有十二者。以隔八相生。終而復始。循環無端也。若以変黄鍾則其数至数十百千万莫有底止。其以為十二者。非自然之数矣。其誤起自不識圜数已。又如本邦一越最長。則有説存矣。古歌吹殊調。歌黄鍾必吹一越。故堂下楽以為記号後人不識。直以為律名故爾。楽家此類極多。不足怪已。既以一越和黄鍾。則其管最長。亦其所也。
書き下し
蔡西山の変黄鍾の如きも、亦た妄説なり。何となれば則ち律の十二有るは、隔八相生を以て、終りて復た始まり、循環して端無ければなり。若し変黄鍾を以てせば、則ち其の数数十百千万に至りて底止する有る莫し。其の以て十二と為す者は、自然の数に非ず。其の誤りは圜数を識らざるより起こるのみ。又た本邦の一越の最も長きが如きは、則ち説の存する有り。古は歌と吹と調を殊にし、黄鍾を歌へば必ず一越を吹く。故に堂下の楽以て記号と為す。後人識らず、直に以て律名と為すが故に爾り。楽家に此の類極めて多く、怪しむに足らざるのみ。既に一越を以て黄鍾に和すれば、則ち其の管の最も長きも、亦た其の所なり。
現代語訳
蔡西山(南宋の蔡元定)の「変黄鍾」の説もまた妄説である。なぜなら、律が十二あるのは、隔八相生(八つ目ごとに次の律を生む法)によって、終わればまた始めに戻り、輪のように端がないからである。もし変黄鍾を立てれば、その数は数十・百・千・万と増えて、とどまるところがない。(そうなれば)十二とするのは自然の数ではなくなってしまう。その誤りは、円環の数理を知らないことから起こったのである。また、わが国の「一越」(雅楽の調子の名)の管がいちばん長いことについては、理由がある。古は歌と吹奏とで調子を違え、黄鍾で歌えば必ず一越で吹いた。だから堂下の楽(楽器による奏楽)ではそれを記号としたのである。後の人はそれを知らず、そのまま律の名だと思ったためにこうなった。楽家にはこのたぐいがきわめて多く、怪しむには足りない。一越で黄鍾に合わせるのであれば、その管がいちばん長いのも当然である。
解説
この章句が説くこと
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