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学則 / 對西肥水秀才問

承問。律曆古法甚簡。甚愜鄙衷。不佞好樂。由是推覈聲律之說。頗得盡其蘊。夏書曰。詩言志。歌永言。聲依永。律和聲。是律本以人音爲準。後世乃以尺度累黍求之。所以失也。今本邦所傳黃鍾。乃古黃鍾。誠如足下之言。樂家有譜。試唱之。則知人口中之音最濁者爲黃鍾。何必紛紛。如三分損益亦大槩言之。何則必以耳聽乃定也。如後世以尺度截律管。必有毫忽之數。目不能睹。刀不能截。將何益乎。故古來大槩言之者。反臻妙理也。

新字:承問。律暦古法甚簡。甚愜鄙衷。不佞好楽。由是推覈声律之説。頗得尽其蘊。夏書曰。詩言志。歌永言。声依永。律和声。是律本以人音為準。後世乃以尺度累黍求之。所以失也。今本邦所伝黄鍾。乃古黄鍾。誠如足下之言。楽家有譜。試唱之。則知人口中之音最濁者為黄鍾。何必紛紛。如三分損益亦大槩言之。何則必以耳聴乃定也。如後世以尺度截律管。必有毫忽之数。目不能睹。刀不能截。将何益乎。故古来大槩言之者。反臻妙理也。

書き下し

問ふを承く。律暦の古法は甚だ簡なりと。甚だ鄙衷に愜ふ。不佞楽を好む。是に由りて声律の説を推覈し、頗る其の蘊を尽くすを得たり。夏書に曰く、詩は志を言ひ、歌は言を永くし、声は永きに依り、律は声を和すと。是れ律は本人の音を以て準と為す。後世乃ち尺度累黍を以て之を求む。失ふ所以なり。今本邦に伝ふる所の黄鍾は、乃ち古の黄鍾なること、誠に足下の言の如し。楽家に譜有り。試みに之を唱へば、則ち人の口中の音の最も濁れる者を黄鍾と為すを知らん。何ぞ必ずしも紛紛たらん。三分損益の如きも亦た大概之を言ふ。何となれば則ち必ず耳を以て聴きて乃ち定まればなり。後世の尺度を以て律管を截るが如きは、必ず毫忽の数有り。目睹る能はず、刀截る能はず。将た何の益かあらん。故に古来大概之を言ふ者、反りて妙理に臻るなり。

現代語訳

お尋ねを承った。「律暦の古の方法はきわめて簡単だった」とのお説は、私の心に深くかなう。私は音楽を好み、そこから声律の説を突き詰めて、その奥義をかなり究めることができた。『書経』(夏書)に「詩は志を言い表し、歌は言葉を長く引き、声はその長さに従い、律は声を調和させる」とある。つまり律はもともと人の声を基準とするものである。後世は物差しや黍粒を並べた寸法でそれを求めた。それが(正しい律を)失った理由である。今わが国に伝わる黄鍾が古の黄鍾であることは、まことにあなたの言うとおりである。楽家には譜がある。試しにそれを唱えてみれば、人の口から出る音でいちばん低く濁った音が黄鍾であるとわかる。どうしてあれこれ論じ立てる必要があろう。三分損益法(律管の長さを三分の一ずつ増減して音律を定める法)にしても、おおよそを言ったものである。なぜなら、必ず耳で聴いて初めて定まるからである。後世のように物差しで律管を切ろうとすれば、必ず毛筋ほどの細かい端数が出る。目でも見えず、刀でも切れない。何の役に立とうか。だから古来おおよそを言ったものが、かえって妙理に達しているのである。

解説

第四条は音律と暦法である。古の律暦は簡単だったという相手の説に、楽を好む徂徠は大いに同意する。『書経』に律は声を和すとあるように、律の基準は本来人の声であり、後世それを物差しや黍粒の寸法で求めたから失われたという。三分損益も大づかみの法で、最後は耳で聴いて定まる。目にも見えず刀でも切れない端数を追っても役に立たない。精密さが目的になると本質を見失うという指摘は鋭い。仕事でも、測れる数値ばかりを細かく詰めて、肝心の人の感覚や現場の手応えを見落とすことがある。

この章句が説くこと

楽律黄鍾古法簡易声

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