学則 / 與平子彬書
大氏古今人不甚相遠。今之所有。古亦有之。豈若今道學先生所言邪。夫賦者。古詩之流也。然辭賦興而文章之道濫矣。隋設科擧。而後世無不文之儒。然濫亦益甚也。視其濫而欲掃而除之。亦懲羹吹氷耳。足下思之。它面晤。不備
新字:大氏古今人不甚相遠。今之所有。古亦有之。豈若今道学先生所言邪。夫賦者。古詩之流也。然辞賦興而文章之道濫矣。隋設科挙。而後世無不文之儒。然濫亦益甚也。視其濫而欲掃而除之。亦懲羹吹氷耳。足下思之。它面晤。不備
書き下し
大氏古今の人は甚だしくは相遠からず。今の有る所は、古も亦た之有り。豈に今の道学先生の言ふ所の若くならんや。夫れ賦なる者は、古詩の流なり。然れども辞賦興りて文章の道濫る。隋科挙を設けて、而して後世文ならざるの儒無し。然れども濫も亦た益〻甚だし。其の濫を視て掃ひて之を除かんと欲するは、亦た羹に懲りて氷を吹くのみ。足下之を思へ。它は面晤せん。不備。
現代語訳
おおよそ昔の人も今の人も、それほどかけ離れてはいない。今あるものは昔にもあった。どうして今の道学先生たちが言うようなもの(古には文人などいなかった)であろうか。そもそも賦は古の詩の流れをくむものである。しかし辞賦が盛んになって、文章の道は乱れた。隋が科挙を設けてからは、文章を書けない儒者は後世いなくなったが、その乱れもいっそう甚だしくなった。だが、その乱れを見て文章そのものを一掃しようとするのは、熱い吸い物でやけどしたのに懲りて、氷まで吹いて冷まそうとするようなものである。あなたはよく考えなさい。その他のことは会ってお話ししよう。意を尽くさないが、これにて。
解説
二通目の結びである。昔の人も今の人もそう変わらず、今あるものは古にもあったと徂徠は言い、古には文人がいなかったという道学者の説を退ける。辞賦の流行や隋の科挙で文章が乱れたのは確かだが、だからといって文章そのものを捨てるのは、羹に懲りて氷まで吹くようなものだという。弊害を見て根こそぎ否定するのでなく、本来の姿に立ち返るのが徂徠の古学の態度である。組織でも、制度の行き過ぎに懲りて仕組みごと捨ててしまう失敗はよくある。正すべきは乱れであって、もとの道具ではない。
この章句が説くこと
文章科挙古今学問詩道学
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