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学則 / 與平子彬書

故予嘗斷論語原思琴張作。何者。它家語諸書所載孔子言。比諸論語。不甚雅馴。乃載筆者有工拙耳。且載筆之與矢口不同。驗諸今可見已。喜怒見於貌。疾徐見於氣。故直錄其言者。有所不足也。故載筆者。足之以文。今觀諸書所載。一時之言。字之同音者多也。是何辨乎。載筆者。兼以目眎。豈不辨乎。且六藝各有事事。不爾。有德者。不學其事。能乎。故有德者有言。非是之謂也。足下之援此。不佞故以爲强詞軋理也。

新字:故予嘗断論語原思琴張作。何者。它家語諸書所載孔子言。比諸論語。不甚雅馴。乃載筆者有工拙耳。且載筆之与矢口不同。験諸今可見已。喜怒見於貌。疾徐見於気。故直録其言者。有所不足也。故載筆者。足之以文。今観諸書所載。一時之言。字之同音者多也。是何弁乎。載筆者。兼以目眎。豈不弁乎。且六芸各有事事。不爾。有徳者。不学其事。能乎。故有徳者有言。非是之謂也。足下之援此。不佞故以為強詞軋理也。

書き下し

故に予嘗て論語は原思・琴張の作と断ず。何となれば、它の家語諸書に載する所の孔子の言は、諸を論語に比ぶるに、甚だしくは雅馴ならず。乃ち載筆する者に工拙有るのみ。且つ載筆の矢口と同じからざるは、諸を今に験して見るべきのみ。喜怒は貌に見はれ、疾徐は気に見はる。故に直に其の言を録する者は、足らざる所有り。故に載筆する者は、之を足すに文を以てす。今諸書に載する所を観るに、一時の言、字の同音なる者多し。是れ何ぞ弁ぜんや。載筆する者は、兼ぬるに目眎を以てす。豈に弁ぜざらんや。且つ六芸は各〻事有り。爾らずんば、徳有る者、其の事を学ばずして、能くせんや。故に徳有る者は言有りとは、是の謂に非ざるなり。足下の此を援くは、不佞故に以て詞を強ひ理を軋ると為すなり。

現代語訳

だから私はかつて、『論語』は原思(原憲)と琴張が書き記したものだと断じた。なぜか。『孔子家語』など他の書物に載る孔子の言葉は、『論語』と比べると、あまり雅やかに整っていない。それは筆を執って記録した者に巧拙があったにすぎない。そもそも筆で書き記すことと、口から出る言葉とは同じではない。それは今の世に照らしてもわかる。喜びや怒りは顔つきに表れ、話の速い遅いは息づかいに表れる。だから言葉をそのまま書き写しただけでは足りないところがある。それゆえ記録する者は、文によってそれを補うのである。今いろいろな書物に載っている、その場その場の言葉を見ると、同音の字が多い。(耳で聞くだけなら)どうして区別できようか。記録する者は目でも確かめて書くのだから、どうして区別しないことがあろう。また六芸にはそれぞれ固有の技がある。そうでなければ、徳のある人がその技を学ばずにできるだろうか。だから「徳のある者は必ず立派な言葉がある」というのは、(文を学ばなくてよいという)意味ではない。あなたがこれを引いたことを、私が言葉を無理に押し通し理屈をねじ曲げたものだと言うのは、そのためである。

解説

徂徠は、『論語』が『孔子家語』などより雅やかなのは記録者の腕の差だと見て、原思・琴張の筆になると推定する。話し言葉は表情や息づかいとともに伝わるので、そのまま書き写すと足りない。だから記録者は文で補うのだという。徳のある者は必ず言葉があるという句を、文を学ばなくてよい根拠に使う相手には、六芸にはそれぞれ技があり学ばねばできないと返す。徳と技を分けて考える徂徠らしい議論である。会議の議事録でも、発言をそのまま写すだけでは真意は伝わらない。書き手の技が言葉を生かすのである。

この章句が説くこと

論語記録文章六芸徳技

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