学則 / 與平子彬書
又以韓歐之文爲根柢六經者。大謬矣。但韓歐喜用道德仁義之字。辨析是非耳。必以此爲根柢六經。則明人經義八股。愈於韓歐遠矣。朱子語類。更爲勝之。且詩書禮易春秋。何嘗有之乎。是皆足下理學所錮。不覺其言刺謬至此已。世儒醉理。而道德仁義天理人欲。衝口以發。不佞每聞之。便生嘔噦。乃彈琴吹笙。否則關關雎鳩。以洗其穢於是又愧柳下惠之不可及已。
新字:又以韓欧之文為根柢六経者。大謬矣。但韓欧喜用道徳仁義之字。弁析是非耳。必以此為根柢六経。則明人経義八股。愈於韓欧遠矣。朱子語類。更為勝之。且詩書礼易春秋。何嘗有之乎。是皆足下理学所錮。不覚其言刺謬至此已。世儒酔理。而道徳仁義天理人欲。衝口以発。不佞毎聞之。便生嘔噦。乃弾琴吹笙。否則関関雎鳩。以洗其穢於是又愧柳下恵之不可及已。
書き下し
又た韓・欧の文を以て六経に根柢すと為す者は、大いに謬れり。但だ韓・欧は喜んで道徳仁義の字を用ゐ、是非を弁析するのみ。必ず此を以て六経に根柢すと為さば、則ち明人の経義八股は、韓・欧に愈ること遠し。朱子語類は、更に之に勝ると為さん。且つ詩・書・礼・易・春秋に、何ぞ嘗て之有らんや。是れ皆足下の理学に錮がるる所にして、其の言の刺謬此に至るを覚えざるのみ。世儒は理に酔ひて、道徳仁義・天理人欲、口を衝きて以て発す。不佞毎に之を聞けば、便ち嘔噦を生ず。乃ち琴を弾じ笙を吹き、否ずんば則ち関関たる雎鳩もて、以て其の穢れを洗ふ。是に於て又た柳下恵の及ぶべからざるを愧づ。
現代語訳
また、韓愈・欧陽脩の文章が六経に根ざしているとするのは、大きな誤りである。韓・欧はただ「道徳」「仁義」という字を好んで使い、是非を論じ分けているにすぎない。もしそれで六経に根ざすというなら、明代の人の経義八股文(科挙の答案の文)のほうが韓・欧よりはるかに優れていることになり、『朱子語類』はさらに勝ることになる。そもそも『詩』『書』『礼』『易』『春秋』に、そのような書き方がかつてあっただろうか。これはみな、あなたが理学(朱子学)に縛られているために、自分の言葉がここまで食い違っていることに気づかないのである。世の儒者は理に酔って、道徳・仁義・天理・人欲といった語を口をついて吐き出す。私はそれを聞くたびに吐き気をもよおす。そこで琴を弾き笙を吹き、そうでなければ「関関たる雎鳩」(『詩経』冒頭の詩)を口ずさんで、その汚れを洗い流す。そうしてまた、何を聞いても心を乱さなかった柳下恵には及ばないと恥じ入るのである。
解説
この章句が説くこと
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『長短経』道徳夫れ兵に出だすべからざる者三あり。国に和せざれば、以て軍を出だすべからず。軍に和せざれば、以て陣を出だすべからず。陣に和せざれば、以て戦いを出だすべからず。故に孫子曰く、一に曰く道。道なる者は、人をして上と意を同じくせしむる者なり。故に之と死すべく、之と生くべくして、人危うきを畏れず。〔危は、疑なり。主上素より仁を下に施すこと有れば、則ち士は能く前に致して敵に赴き、故に与に存亡の難に処りて、傾危の敗を畏れざるを言う。晋陽の囲み、竈を沈めて蛙を生ずるも、民に叛疑無きが若きなり。〕
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『長短経』道徳黄石公曰く「軍井未だ達せざれば、将は渇くと言わず。軍幕未だ弁ぜざれば、将は倦むと言わず。冬は裘を服せず、夏は扇を操らず。是れ礼将と謂う。之と安んじ、之と危うくす。故に其の衆は合すべくして離るべからず、用うべくして疲らすべからず」と。之に接するに礼を以てし、之を厲ますに辞を以てすれば〔士を厲ますに危うきを見て命を授くるの辞を以てするなり〕、則ち士之に死す。是を以て蓼を含み疾を問いて、越王は諸侯に伯たり。疽を吮い士を恤れみて、呉起は敵国を凌ぐ。陽門に慟哭して、三晋の兵に勝ち、単醪を河に投じて、一軍の士を感ぜしむ。勇者は之が為に闘い、智者は之が為に憂う。死を視ること帰するが若く、計りて踵を旋らさざる者は、其の恩養素より畜え、策謀和同するを以てなり。故に曰く「恩を畜うること倦まざれば、一を以て万を取る」と。語に曰く「恩を積みて已まざれば、天下使うべし」と。此れ道徳の略なり。
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『正法眼蔵随聞記』巻二いまだ聞かず三国の例、財宝にとみ、愚人の帰敬をもつて道徳とすべきことを、道心者と云ふは昔しより三国みな貧にして、身をくるしくし、一切を省約して、慈あり道あるをまことに行者と云ふなり、徳のあらはるゝと云も、財宝にゆたかに、供養にほこるを云にあらす、徳の顕はるゝに三重あるべし、先つは其の人其の道を修するなりと知らるゝなり、次には其の道を慕ふ者いで来る、後には其の道をおなじく学し同じく行ずる、是を道徳のあらはるゝと云ふなり、
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『酔古堂剣掃』集豪・寂寞一時、淒涼萬古道德に棲守する者は、寂寞たること一時。 權變に依阿する者は、淒涼たること萬古。
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