学則 / 與平子彬書
夫辭與言不同。足下以爲一。倭人之陋也。辭者。言之文者也。言欲文。故曰尙辭。曰脩辭。曰文以足言。言何以欲文。君子之言也。古之君子。禮樂得諸身。故脩辭者。學君子之言也。足下所稱。昌黎以還。質勝而文亡。豈足以爲文邪。是無它。不知脩辭之道。乃積字成句。所以質也。是謂野人之言。非君子之言也。孟子以後既有是過。論語左傳戴記則否。足下玩之自見。
新字:夫辞与言不同。足下以為一。倭人之陋也。辞者。言之文者也。言欲文。故曰尚辞。曰脩辞。曰文以足言。言何以欲文。君子之言也。古之君子。礼楽得諸身。故脩辞者。学君子之言也。足下所称。昌黎以還。質勝而文亡。豈足以為文邪。是無它。不知脩辞之道。乃積字成句。所以質也。是謂野人之言。非君子之言也。孟子以後既有是過。論語左伝戴記則否。足下玩之自見。
書き下し
夫れ辞と言とは同じからず。足下以て一と為す。倭人の陋なり。辞なる者は、言の文なる者なり。言は文ならんことを欲す。故に辞を尚ぶと曰ひ、辞を脩むと曰ひ、文以て言を足すと曰ふ。言何を以て文ならんことを欲する。君子の言なればなり。古の君子は、礼楽を諸を身に得たり。故に辞を脩むる者は、君子の言を学ぶなり。足下の称する所、昌黎以還は、質勝ちて文亡ぶ。豈に以て文と為すに足らんや。是れ它無し。脩辞の道を知らず、乃ち字を積みて句を成す。質なる所以なり。是を野人の言と謂ふ。君子の言に非ざるなり。孟子以後既に是の過有り。論語・左伝・戴記は則ち否らず。足下之を玩ばば自ら見ん。
現代語訳
そもそも「辞」と「言」とは同じではない。あなたはこれを一つのものと考えているが、それは日本人の見識の狭さである。「辞」とは言葉に文(あや)をそなえたものである。言葉は文をそなえることが望まれる。だから「辞を尊ぶ」「辞を修める」「文によって言葉を補う」と言われるのである。なぜ言葉に文が求められるのか。それが君子の言葉だからである。古の君子は礼楽を身につけていた。だから辞を修めるとは、君子の言葉を学ぶことなのである。あなたが称える昌黎(韓愈)以降の文章は、質朴さが勝って文が失われている。どうしてこれを文と呼べようか。理由はほかでもない。修辞の道を知らず、ただ字を積み重ねて句を作っているから、質朴になるのである。これを野人(教養のない人)の言葉といい、君子の言葉ではない。孟子以後すでにこの過ちがあるが、『論語』『左伝』『礼記』(戴記)はそうではない。あなたがこれらをよく味わえば、自然とわかるだろう。
解説
この章句が説くこと
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『呻吟語』内篇・問學・平なれば則ち穩なり恒言の平穩の二字は極めて玩ぶ可し。蓋し天下の事は、惟だ平なれば則ち穩なり。險を行きて亦た得る有るも、終に是れ穩ならず。故に君子は易に居る。
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