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学則 / 答屈景山書

且學之道。倣傚爲本。故孟子曰。服堯之服誦堯之言行堯之行是堯而已矣。而不問其心與德何如者。學之道爲爾。禮樂之敎。左則左。右則右。宮則宮。商則商。必如其師。而不敢違以分。故孔子拱尙右。則門人亦拱尙右。孔子謂之嗜學。可以見已。習書者。必摸蘭亭黃庭。豈求爲贋乎。學之道爲爾。謂吾既得其心。吾既得其理。不必拘其似不似者。莊禪之遺也。故方其始學也。謂之剽竊摸擬。亦可耳。久而化之。習慣如天性。雖自外來。與我爲一。故子思曰。合內外之道也。故病摸擬者。不知學之道者也。

新字:且学之道。倣傚為本。故孟子曰。服堯之服誦堯之言行堯之行是堯而已矣。而不問其心与徳何如者。学之道為爾。礼楽之教。左則左。右則右。宮則宮。商則商。必如其師。而不敢違以分。故孔子拱尚右。則門人亦拱尚右。孔子謂之嗜学。可以見已。習書者。必摸蘭亭黄庭。豈求為贋乎。学之道為爾。謂吾既得其心。吾既得其理。不必拘其似不似者。荘禅之遺也。故方其始学也。謂之剽窃摸擬。亦可耳。久而化之。習慣如天性。雖自外来。与我為一。故子思曰。合内外之道也。故病摸擬者。不知学之道者也。

書き下し

且つ学の道は倣效を本と為す。故に孟子曰く、「堯の服を服し、堯の言を誦し、堯の行ひを行へば、是れ堯なるのみ」と。而して其の心と徳との何如を問はざる者は、学の道爾ればなり。礼楽の教へは、左は則ち左、右は則ち右、宮は則ち宮、商は則ち商、必ず其の師の如くにして、敢へて違ふに分を以てせず。故に孔子拱して右を尚べば、則ち門人も亦た拱して右を尚ぶ。孔子之を学を嗜むと謂ふ。以て見るべきのみ。書を習ふ者は必ず蘭亭・黄庭を模す。豈に贋を為すを求めんや。学の道爾ればなり。吾既に其の心を得たり、吾既に其の理を得たり、必ずしも其の似ると似ざるとに拘はらずと謂ふ者は、荘禅の遺なり。故に其の始めて学ぶに方りてや、之を剽窃模擬と謂ふも、亦た可なるのみ。久しくして之に化すれば、習慣天性の如く、外より来たると雖も、我と一と為る。故に子思曰く、「内外を合するの道なり」と。故に模擬を病む者は、学の道を知らざる者なり。

現代語訳

そもそも学ぶ道は、まねることを根本とする。だから孟子は「堯の服を着、堯の言葉を唱え、堯の行いを行えば、それは堯にほかならない」と言った。その心や徳がどうであるかを問わないのは、学ぶ道がそういうものだからである。礼楽の教えでは、左なら左、右なら右、宮の音なら宮、商の音なら商と、必ず師のとおりにして、わずかも違えない。だから孔子が手を組んで右手を上にすると、門人たちもみな右手を上にして手を組んだ。孔子はこれを「学を好む」と言った(『礼記』檀弓)。これで明らかである。書道を習う者は、必ず「蘭亭序」や「黄庭経」を臨模する。どうして偽物を作ろうとしているのだろうか。学ぶ道がそういうものだからである。「自分はもうその心をつかんだ、その理をつかんだ、似ているかどうかにこだわる必要はない」と言うのは、荘子や禅の名残である。だから学び始めの段階では、これを剽窃や模倣と言っても構わない。だが長く続けて身に化すれば、習慣が天性のようになり、外から来たものであっても自分と一体になる。だから子思は「内と外を合わせる道である」(『中庸』)と言った。ゆえに模倣を非難する者は、学ぶ道を知らない者である。

解説

模倣批判に対する徂徠の答えの核心である。学ぶとは倣うことであり、孟子の「堯の服を服し」の言葉、師にならって手の組み方まで揃えた孔子の門人、書道の臨書がその証とされる。心や理を先につかんだと称して形を軽んじるのは荘子や禅の流れだと退け、形を長く繰り返せば外から来たものも天性のように身につくと説く。礼楽という外の形で人を育てる徂徠の教育観がよく表れている。仕事の型も、最初は窮屈な真似に見えるが、身につけば自分の判断を支える土台になるのである。

この章句が説くこと

学問模倣礼楽教育習慣孔子

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