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学則 / 答屈景山書

不佞從幼守宋儒傳注。崇奉有年。積習所錮。亦不自覺其非矣。藉天之寵靈。曁中年得二公之業以讀之。其初亦苦難入焉。蓋二公之文。資諸古辭。故不熟古書者。不能以讀之。古書之辭。傳注不能解者。二公發諸行文之際渙如也。不復須訓詁。蓋古文辭之學。豈徒讀已邪。亦必求出諸其手指焉。能出諸其手指。而古書猶吾之口自出焉。夫然後。直與古人相揖於一堂上。不用紹介焉。豈如鄉者徘徊乎門墻之外仰人鼻息以進退者邪。豈不婾快哉。

新字:不佞従幼守宋儒伝注。崇奉有年。積習所錮。亦不自覚其非矣。藉天之寵霊。曁中年得二公之業以読之。其初亦苦難入焉。蓋二公之文。資諸古辞。故不熟古書者。不能以読之。古書之辞。伝注不能解者。二公発諸行文之際渙如也。不復須訓詁。蓋古文辞之学。豈徒読已邪。亦必求出諸其手指焉。能出諸其手指。而古書猶吾之口自出焉。夫然後。直与古人相揖於一堂上。不用紹介焉。豈如郷者徘徊乎門墻之外仰人鼻息以進退者邪。豈不婾快哉。

書き下し

不佞幼きより宋儒の伝注を守り、崇奉すること年有り。積習の錮す所、亦た自ら其の非を覚らず。天の寵霊を藉り、中年に曁びて二公の業を得て以て之を読む。其の初め亦た入り難きに苦しむ。蓋し二公の文は諸を古辞に資る。故に古書に熟せざる者は以て之を読む能はず。古書の辞、伝注の解する能はざる者、二公諸を行文の際に発して渙如たり。復た訓詁を須ひず。蓋し古文辞の学は、豈に徒らに読むのみならんや。亦た必ず諸を其の手指より出ださんことを求む。能く諸を其の手指より出だせば、而ち古書猶ほ吾の口より自ら出づるがごとし。夫れ然る後、直ちに古人と一堂の上に相揖して、紹介を用ゐず。豈に郷者の門牆の外に徘徊し、人の鼻息を仰ぎて以て進退する者の如くならんや。豈に愉快ならずや。

現代語訳

私は幼い頃から宋儒の注釈を守り、長年あがめ奉ってきた。積もった習慣に縛られ、その誤りに自分でも気づかなかった。天のご加護により、中年になって二人(李・王)の著作を手に入れて読んだ。初めはやはり入りにくくて苦しんだ。思うに二人の文は古の言葉に材を取っているので、古書に熟していない者には読めないのである。古書の言葉で、注釈では解けなかったものが、二人の文の運びの中で用いられて、氷が解けるようにはっきりした。もはや訓詁(字句の注釈)はいらなかった。思うに古文辞の学は、ただ読むだけのものではない。必ず自分の手と指から書き出せるようになることを求める。自分の手から書き出せるようになれば、古書がまるで自分の口から自然に出てくるようになる。そうなってはじめて、古人とじかに一つの座敷で会釈を交わし、紹介者を必要としない。以前のように門や垣根の外をうろつき、人の鼻息をうかがって進んだり退いたりしていたのとは比べものにならない。なんと愉快なことではないか。

解説

徂徠自身の学問の転機が語られる。幼い頃から朱子の注釈を信じてきたが、中年に李攀龍・王世貞の文集に出会い、注釈では解けなかった古語が、彼らの文の中で生きた用例として腑に落ちたという。古文辞学は読むだけでなく、自分でその言葉を使って書けるようになることを求める。そうなれば注釈という仲介者なしに、古人と同じ座敷で向き合える。外国語でも専門分野でも、読めるだけでなく自分で書き話せるようになったとき、原典は「わかる」ものから「通じる」ものへと変わるのである。

この章句が説くこと

古文辞学問習熟古書宋儒実践

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