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学則 / 答屈景山書

其文以理勝。不必法。而其紬辭者自若。夫文以道意。豈患無理。西漢以上。深矣。俾人思而得之。宋人乃欲瞭然乎目下。是以淺矣。蹊逕皆露。其所長議論耳。縱橫馳騁。肆心所之。故惡法之束也。況辭乎。紬辭。故不能叙事。夫明鬯是務。欲瞭然乎目下者。注疏之文非邪。是以末流之弊。語錄不啻也。明李王二公。倡古文辭。亦取法於古。其謂之古文辭者。尙辭也。主叙事。不喜議論。亦矯宋弊也。

新字:其文以理勝。不必法。而其紬辞者自若。夫文以道意。豈患無理。西漢以上。深矣。俾人思而得之。宋人乃欲瞭然乎目下。是以浅矣。蹊逕皆露。其所長議論耳。縦横馳騁。肆心所之。故悪法之束也。況辞乎。紬辞。故不能叙事。夫明鬯是務。欲瞭然乎目下者。注疏之文非邪。是以末流之弊。語録不啻也。明李王二公。倡古文辞。亦取法於古。其謂之古文辞者。尚辞也。主叙事。不喜議論。亦矯宋弊也。

書き下し

其の文は理を以て勝ち、必ずしも法あらず。而して其の辞を絀くることは自若たり。夫れ文は以て意を道ふ、豈に理無きを患へんや。西漢以上は深し。人をして思ひて之を得しむ。宋人は乃ち目下に瞭然たらしめんと欲す。是を以て浅し。蹊逕皆露はる。其の長ずる所は議論のみ。縦横馳騁して、心の之く所を肆にす。故に法の束ぬるを悪む。況んや辞をや。辞を絀く、故に事を叙する能はず。夫れ明暢是れ務めて、目下に瞭然たらしめんと欲する者は、注疏の文に非ずや。是を以て末流の弊、語録に啻ならざるなり。明の李王二公、古文辞を倡へ、亦た法を古に取る。其の之を古文辞と謂ふ者は、辞を尚ぶなり。叙事を主として議論を喜ばず。亦た宋の弊を矯むるなり。

現代語訳

宋の文は理屈で勝ち、必ずしも法に従わない。しかも言葉の飾りを退けることは相変わらずである。そもそも文は意を述べるものだから、どうして理がないことを心配しようか。前漢以前の文は深い。読む人に考えさせて理解させる。宋の人は目の前ですぐはっきりわからせようとする。だから浅い。道筋がすべてむき出しになっている。得意なのは議論だけで、縦横に駆けめぐり、心の赴くままに述べ立てる。だから法に縛られるのを嫌う。まして言葉の修飾などなおさらである。言葉を退けるから、出来事を叙述することができない。そもそも明快さを務めとし、目の前ですぐわからせようとするのは、注疏(経書の注釈)の文ではないか。それゆえ末流の弊は、語録(講義の口語筆記)とほとんど変わらなくなった。明の李攀龍・王世貞の二人は古文辞を唱え、やはり法を古に取った。それを古文辞と呼ぶのは、言葉を尊ぶからである。叙事を主とし、議論を好まない。これもまた宋の弊を正すものであった。

解説

徂徠は宋の文章を「理で勝つが浅い」と評する。前漢以前の文は読み手に考えさせて意味をつかませるが、宋文はすべてを目の前で明らかにしようとして奥行きを失い、議論ばかりで事実を叙述できない。その行き着く先が朱子学の語録だという。これに対し明の李攀龍・王世貞は、言葉そのものを尊ぶ古文辞を唱えた。朱子学の文体への批判は、そのまま学問への批判につながっている。わかりやすさだけを追う資料は、読み手が考える余地を奪うこともある。説明しすぎない文章の力を見直したい。

この章句が説くこと

文章古文辞宋儒議論叙事理

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