弁名 / 學
朱子以究理解格物。殊不知究理者贊聖人作易之言也。豈學者之所能哉。天下之理。不可窮盡。故立一旦豁然之說以濟之。夫小道小藝。亦皆有悟。然一事有一事之悟。一節有一節之悟。嚮者所不知。今者忽然知之。謂之悟。然豈有所謂大悟者哉。浮屠以出離生死爲學。而生死不可出離。故有大悟之說。今推以合諸聖人之道。豈有之乎。果其說之是乎。非行之艱。知之艱也。其於經文。豈不相反乎。致知誠意正心脩身。皆格物之功效。可見其不必分先後已。陽明先生知行合一之說。可謂聰敏之至矣。然亦不知遵先王之敎。豈不惜乎。
新字:朱子以究理解格物。殊不知究理者賛聖人作易之言也。豈学者之所能哉。天下之理。不可窮尽。故立一旦豁然之説以済之。夫小道小芸。亦皆有悟。然一事有一事之悟。一節有一節之悟。嚮者所不知。今者忽然知之。謂之悟。然豈有所謂大悟者哉。浮屠以出離生死為学。而生死不可出離。故有大悟之説。今推以合諸聖人之道。豈有之乎。果其説之是乎。非行之艱。知之艱也。其於経文。豈不相反乎。致知誠意正心脩身。皆格物之功効。可見其不必分先後已。陽明先生知行合一之説。可謂聰敏之至矣。然亦不知遵先王之教。豈不惜乎。
書き下し
朱子は究理を以て格物を解す。殊に知らず、究理とは聖人の易を作るを賛するの言なるを。豈に学者の能くする所ならんや。天下の理は窮尽すべからず、故に一旦豁然の説を立てて以て之を済ふ。夫れ小道小芸も亦た皆悟有り。然れども一事には一事の悟有り、一節には一節の悟有り。嚮者に知らざる所、今者忽然として之を知る、之を悟と謂ふ。然れども豈に所謂大悟なる者有らんや。浮屠は生死を出離するを以て学と為す。而して生死は出離すべからず、故に大悟の説有り。今推して以て諸を聖人の道に合す、豈に之有らんや。果して其の説の是ならんか、行の艱きに非ず、知の艱きなり。其の経文に於て、豈に相反せずや。致知・誠意・正心・脩身は、皆格物の功効なり。其の必ずしも先後を分たざるを見るべきのみ。陽明先生の知行合一の説は、聡敏の至りと謂ふべし。然れども亦た先王の教に遵ふを知らず。豈に惜しからずや。
現代語訳
朱子は「究理(理を窮める)」で格物を解釈した。だが究理とは、聖人が易を作ったことをたたえた(説卦伝の)言葉だとまったく知らない。どうして学ぶ者にできることであろうか。天下の理は窮め尽くすことができない。だから「ある日からりと悟りが開ける(一旦豁然)」という説を立てて、それを補ったのである。そもそも小さな道や小さな技芸にも、みな悟りはある。しかし一つの事には一つの事の悟りがあり、一つの節目には一つの節目の悟りがある。以前は知らなかったことを、いまふと知る、それを悟りという。だがどうして「大悟」などというものがあろうか。仏教は生死を離脱することを学びとするが、生死は離脱できない。だから大悟の説があるのだ。いまそれを推して聖人の道に合わせようとするが、そんなことがあろうか。もしその説が正しいなら、「行うことが難しいのではなく、知ることが難しい」ことになる。経文(『書経』)とまるで反対ではないか。致知・誠意・正心・修身は、みな格物の効果である。必ずしも先後を分けないことがわかる。王陽明先生の知行合一の説は、聡明の極みというべきである。しかしこれも先王の教えに従うことを知らない。なんと惜しいことではないか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『弁名』物鄭玄の大学を解するに、格を訓じて来と為す、古訓の尚ほ存する者爲り。朱子は解して究理と為す。究理は聖人の事なり、豈に之を学者に望むべけんや。且つ其の解に曰く、「物理を究至す」と。是れ格物に究理を加へて而る後に義始めて成る。文外に意を生ずと謂ふべし。豈に妄に非ずや。且つ古の所謂知至るとは、諸を身に得て而る後に知始めて明らかなるを謂ふなり。而るに朱子は外に在る者を究めて吾が知を致さんと欲す。強ふと謂ふべきのみ。
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『弁名』智然れども其の之を失ふ所以を求むれば、則ち孟子に昉まるか。孟子曰く、「是非の心は、智の端なり」と。其の意も亦た聖人の道は人の性に率ひて立つと謂ふ。祇だ弁を好むの甚だしき、其の言の弊有るを覚えざるのみ。後儒之を察せず、乃ち天下の理曉然として洞徹し疑惑する所莫きを以て解と為す。殊に知らず、是れ世俗の所謂智にして、先王の道の尚ぶ所に非ざることを。孔子曰く、「択びて仁に処らずんば、焉んぞ知なるを得ん」と。又曰く、「知者は仁を利とす」と。是れ其の意、仁より尚きは莫きを知るを謂ふ。知らざる者は則ち又た天下の理を究め尽くして、而る後に仁より尚きは莫きを知ると謂ふ。故に宋儒に格物究理の説有り。又た究理は本と聖人の易を作るを賛するの言にして、学者の事に非ざるを知らず。大学の所謂格物とは、其の事を習ふことの久しくして、自然に得る所有り、得る所有りて後に知る所始めて明らかなるを謂ふ。故に曰く、「物格りて后に知至る」と。豈に天下の理を究め尽くすの謂ならんや。
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『弁名』學知行に至りては則ち然らず。知とは真に之を知るを謂ふなり。行とは力めて之を行ふを謂ふなり。力行の久しき、習熟の至りて、而る後真に之を知る。故に知必ずしも先ならず、行必ずしも後ならず。「之を知るの艱きに非ず、之を行ふこと惟れ艱し」と曰ふが如き、行は必ず之を力む、故に艱と曰ふ。知は力を容れず、黙して之を識るを貴ぶ、故に艱に非ずと曰ふ。古の道爲り。朱子又大学の格物・致知・誠意・正心・脩身に拠りて、以て知先行後の説を立つ。殊に知らず、大学の所謂格物とは、亦た其の事を習ひて之に熟し、自然に得る所有りて而る後知生ずるを謂ふのみなるを。孟子の徳慧術知の如きも亦た然り。唯だ徳は慧を生じ、唯だ術は知を生ず。亦た古言なり。
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『徂徠先生答問書』卷下又格物の二字を究到事物之理と註有之候。是は易の究理の文字を借来て註したる物に候。格は到也物は事なりと註したれば、文面の儘にては究理の義は無之候。究到事物之理といふ註は、本文にも無之候究理の二字を付添て義を生じたる物に候、此段疑敷は無之候哉。且易に有之候究理は、聖人の易を作給へるを讃嘆したる詞にて、全く今日学者の上の事にては無之候。心を平にして御覧可被成候。今日天下の理は究尽さるべき物に候哉。是皆人のならぬ事を説て人を強ると申物にて候。且又三綱領八条目の委細なる修行の仕形、何として大学に計有之六経の内一所にも無之候哉。是等の所疑は無之候哉。且又程朱之学問は、理気を分ち、天理人欲を分ち、本然気質を分ち候より外は無之候。如此肝要なる事を、何として古の聖人は説不被申候哉。果して程朱の説是に候はヾ、程朱は孔子にまさる事分明に候。若又古の聖人の教法至極に候はゞ、程朱の説は別に一流と申物にては無之候哉。
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伝習録・答顧東橋書来書に云う、「人に致知・明徳を教えて、其の物に即して理を窮むるを戒む。誠に昏闇の士をして、深居端坐し、教告を聞かずして、遂に能く知致り徳明らかなるに至らしめんや。縦令(たと)い静にして覚有り、稍(やや)本性を悟るも、則ち亦た定慧無用の見ならん。果たして能く古今を知り、事変に達して、用を天下国家の実に致すや否や。其の曰く、『知は意の体、物は意の用。物を格すは君心の非を格すの格の如し』と。語は超悟なりと雖も、独り得て陳見を踵(つ)がざるも、抑も恐らくは道に於て未だ相い吻合せざらん」と。区区、致知格物を論ずるは、正に理を窮むる所以なり。未だ嘗て人の理を窮むるを戒め、之をして深居端坐して一も事とする所無からしめず。若し物に即して理を窮むるを謂わば、前に云う所の「外を務めて内を遺る」者の如くんば、則ち不可なる所有るのみ。昏闇の士も、果たして能く事に随い物に随いて此の心の天理を精察し、以て其の本然の良知を致さば、則ち愚と雖も必ず明らかに、柔と雖も必ず強く、大本立ちて達道行われ、九経の属も、一以て之を貫きて遺す無からん。尚お何ぞ其の致用の実無きを患えんや。彼の頑空虚静の徒は、正に惟だ事に随い物に随いて此の心の天理を精察し、以て其の本然の良知を致す能わずして、倫理を遺棄し、寂滅虚無を以て常と為す。是を以て之を要するに以て家国天下を治むべからず。孰か聖人の窮理尽性の学にして、亦た是の弊有りと謂わんや。心は、身の主なり。而して心の虚霊明覚は、即ち所謂る本然の良知なり。其の虚霊明覚の良知の感に応じて動く者、之を意と謂う。知有りて而る後に意有り。知無くんば則ち意無し。知は意の体に非ずや。意の用うる所は必ず其の物有り。物は即ち事なり。意、親に事うるに用うるが如きは、既に親に事うるを一物と為す。意、民を治むるに用うれば、即ち民を治むるを一物と為す。意、書を読むに用うれば、即ち書を読むを一物と為す。意、訟を聴くに用うれば、則ち訟を聴くを一物と為す。凡そ意の用うる所、物無き者有る無し。是の意有れば即ち是の物有り。是の意無くんば即ち是の物無し。物は意の用に非ずや。「格」の字の義は、「至」の字を以て訓ずる者有り。「文祖に格る」「有苗、来り格る」の如きは、是れ「至」を以て訓ずる者なり。然れども「文祖に格る」は、必ず純孝誠敬にして、幽明の間、一も其の理を得ざる無くして、而る後に之を「格」と謂う。有苗の頑なるも、実に文徳の誕(おお)いに敷くを以てして而る後に格る。則ち亦た「正」の字の義を兼ねて其の間に在る有り。未だ専ら「至」の字を以て之を尽くすべからざるなり。「其の非心を格す」「大臣は君心の非を格す」の類の如きは、是れ則ち一に皆な「其の不正を正して以て正に帰す」の義なり。而して「至」の字を以て訓と為すべからず。且つ『大学』の「格物」の訓も、又た安くんぞ其れ「正」の字を以て訓と為さずして、必ず「至」の字を以て義と為すを知らんや。
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『弁名』學朱子の居敬究理の説は、其の過は先王の教に遵はずして、理を心に求むるに在り。而して心昏ければ則ち理得て之を見るべからず。故に又居敬の説有りて、以て其の心を持す。心豈に持すべけんや。皆臆度して以て之を言ひ、而して未だ嘗て親ら其の事を為さざる者なり。故に其の説聴くべきが如く、俗人の悦ぶ所と為る。皆私意の妄作に出づ。古の道に非ざるなり。
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