弁名 / 物
鄭玄解大學。訓格爲來。古訓尙存者爲爾。朱子解爲究理。究理聖人之事。豈可望之學者哉。且其解曰。究至物理。是格物加究理而後義始成焉。可謂文外生意。豈非妄乎。且古所謂知至者。謂得諸身而後知始明也。而朱子欲究在外者而致吾知。可謂强已。
新字:鄭玄解大学。訓格為来。古訓尚存者為爾。朱子解為究理。究理聖人之事。豈可望之学者哉。且其解曰。究至物理。是格物加究理而後義始成焉。可謂文外生意。豈非妄乎。且古所謂知至者。謂得諸身而後知始明也。而朱子欲究在外者而致吾知。可謂強已。
書き下し
鄭玄の大学を解するに、格を訓じて来と為す、古訓の尚ほ存する者爲り。朱子は解して究理と為す。究理は聖人の事なり、豈に之を学者に望むべけんや。且つ其の解に曰く、「物理を究至す」と。是れ格物に究理を加へて而る後に義始めて成る。文外に意を生ずと謂ふべし。豈に妄に非ずや。且つ古の所謂知至るとは、諸を身に得て而る後に知始めて明らかなるを謂ふなり。而るに朱子は外に在る者を究めて吾が知を致さんと欲す。強ふと謂ふべきのみ。
現代語訳
鄭玄(後漢の学者)は『大学』を解釈して、格を「来る」と訓じた。古い訓詁がまだ残っていたのである。朱子は「理を究める」と解した。理を究めるのは聖人のことであって、どうして学ぶ者にそれを望めようか。それにその解釈では「物の理を究め至る」と言う。これは格物に究理を付け加えて、はじめて意味が成り立つ。本文の外から意味を生み出したというべきで、でたらめではないか。また古くいう「知至る」とは、身に得てはじめて知が明らかになることをいう。ところが朱子は、自分の外にあるものを究めて自分の知を推し極めようとする。無理強いというべきである。
解説
格を「来る」と読む鄭玄の古訓こそ正しく、朱子の「物の理を究め至る」は、本文にない「究理」を補わなければ成り立たない解釈だと徂徠は指摘する。古典解釈で本文の外から意味を足すことを、徂徠は最も嫌った。また知至とは身に得た結果として知が明らかになることで、外の理を究めて知を広げるのは順序が逆だという。報告書やデータを読むとき、書かれていない前提を足して結論を導いていないか、と自問させる一則である。
この章句が説くこと
格物鄭玄朱子究理知至古訓
関連する章句
-
『学則』答安澹泊書格物を解して事物の理を究め到すと為す。是れ究理の二字を加へて、其の義始めて成る。殊に牽強を覚ゆ。且つ究理は、本と聖人の易を作るを賛するの言なり。豈に之を学者に望むべけんや。且つ天下の理、豈に究め尽くすべけんや。明徳の解は美なりと雖も、詩・左伝に至りては、合はざる者有り。且つ天下の人をして皆以て其の明徳を明らかにすること有らしむるは、堯舜の世と雖も、豈に此の事有らんや。
-
『弁名』智然れども其の之を失ふ所以を求むれば、則ち孟子に昉まるか。孟子曰く、「是非の心は、智の端なり」と。其の意も亦た聖人の道は人の性に率ひて立つと謂ふ。祇だ弁を好むの甚だしき、其の言の弊有るを覚えざるのみ。後儒之を察せず、乃ち天下の理曉然として洞徹し疑惑する所莫きを以て解と為す。殊に知らず、是れ世俗の所謂智にして、先王の道の尚ぶ所に非ざることを。孔子曰く、「択びて仁に処らずんば、焉んぞ知なるを得ん」と。又曰く、「知者は仁を利とす」と。是れ其の意、仁より尚きは莫きを知るを謂ふ。知らざる者は則ち又た天下の理を究め尽くして、而る後に仁より尚きは莫きを知ると謂ふ。故に宋儒に格物究理の説有り。又た究理は本と聖人の易を作るを賛するの言にして、学者の事に非ざるを知らず。大学の所謂格物とは、其の事を習ふことの久しくして、自然に得る所有り、得る所有りて後に知る所始めて明らかなるを謂ふ。故に曰く、「物格りて后に知至る」と。豈に天下の理を究め尽くすの謂ならんや。
-
『弁名』學朱子は究理を以て格物を解す。殊に知らず、究理とは聖人の易を作るを賛するの言なるを。豈に学者の能くする所ならんや。天下の理は窮尽すべからず、故に一旦豁然の説を立てて以て之を済ふ。夫れ小道小芸も亦た皆悟有り。然れども一事には一事の悟有り、一節には一節の悟有り。嚮者に知らざる所、今者忽然として之を知る、之を悟と謂ふ。然れども豈に所謂大悟なる者有らんや。浮屠は生死を出離するを以て学と為す。而して生死は出離すべからず、故に大悟の説有り。今推して以て諸を聖人の道に合す、豈に之有らんや。果して其の説の是ならんか、行の艱きに非ず、知の艱きなり。其の経文に於て、豈に相反せずや。致知・誠意・正心・脩身は、皆格物の功効なり。其の必ずしも先後を分たざるを見るべきのみ。陽明先生の知行合一の説は、聡敏の至りと謂ふべし。然れども亦た先王の教に遵ふを知らず。豈に惜しからずや。
-
『徂徠先生答問書』卷下又格物の二字を究到事物之理と註有之候。是は易の究理の文字を借来て註したる物に候。格は到也物は事なりと註したれば、文面の儘にては究理の義は無之候。究到事物之理といふ註は、本文にも無之候究理の二字を付添て義を生じたる物に候、此段疑敷は無之候哉。且易に有之候究理は、聖人の易を作給へるを讃嘆したる詞にて、全く今日学者の上の事にては無之候。心を平にして御覧可被成候。今日天下の理は究尽さるべき物に候哉。是皆人のならぬ事を説て人を強ると申物にて候。且又三綱領八条目の委細なる修行の仕形、何として大学に計有之六経の内一所にも無之候哉。是等の所疑は無之候哉。且又程朱之学問は、理気を分ち、天理人欲を分ち、本然気質を分ち候より外は無之候。如此肝要なる事を、何として古の聖人は説不被申候哉。果して程朱の説是に候はヾ、程朱は孔子にまさる事分明に候。若又古の聖人の教法至極に候はゞ、程朱の説は別に一流と申物にては無之候哉。
-
『弁名』物物とは教の条件なり。古の人は学びて以て徳を己に成すを求む。故に人を教ふる者は教ふるに条件を以てし、学ぶ者も亦た条件を以て之を守る。郷の三物、射の五物の如き、是なり。蓋し六芸に皆之有り、徳を成すの節度なり。其の事を習ふこと之を久しくして、守る所の者成る、是れ之を物格ると謂ふ。其の始めて教を受くるに方りては、物尚ほ我に有らず、諸を辟ふれば彼に在りて来らざるがごとし。其の成るに及びては、物我が有と為る、諸を辟ふれば彼より来り至るがごとし。其の力を容れざるを謂ふなり。故に物格ると曰ふ。格とは来るなり。教の条件我に得れば、則ち知自然に明らかなり。是れ之を知至ると謂ふ。亦た力を容れざるを謂ふなり。
-
『弁名』學知行に至りては則ち然らず。知とは真に之を知るを謂ふなり。行とは力めて之を行ふを謂ふなり。力行の久しき、習熟の至りて、而る後真に之を知る。故に知必ずしも先ならず、行必ずしも後ならず。「之を知るの艱きに非ず、之を行ふこと惟れ艱し」と曰ふが如き、行は必ず之を力む、故に艱と曰ふ。知は力を容れず、黙して之を識るを貴ぶ、故に艱に非ずと曰ふ。古の道爲り。朱子又大学の格物・致知・誠意・正心・脩身に拠りて、以て知先行後の説を立つ。殊に知らず、大学の所謂格物とは、亦た其の事を習ひて之に熟し、自然に得る所有りて而る後知生ずるを謂ふのみなるを。孟子の徳慧術知の如きも亦た然り。唯だ徳は慧を生じ、唯だ術は知を生ず。亦た古言なり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る