学則 / 学則三
夫六經物也。道具存焉。施諸行事深切著明。聖人之惡空言也。天何言也。四時行焉。百物生焉。敎之術也。不憤不啓。不悱不發。竢夫生也。不知焉者謂之愛也。生斯無禦。非自外鑠也。非襲而取也。故聖人之敎。貴乎格。求行之者也。故唯其物。聃也者。務言之者也。夫言之者。明一端者也。擧一而廢百。所以害也。後儒乃非聃。而傚其尤。言之弗已。名存而物亡。仁義道德之說盛。而道益不明。方今之世。滔滔者天下皆聃之徒哉。又安知聖人之敎莫尙焉。是豈有古今哉。故吾退而求諸六經。唯其物。
新字:夫六経物也。道具存焉。施諸行事深切著明。聖人之悪空言也。天何言也。四時行焉。百物生焉。教之術也。不憤不啓。不悱不発。竢夫生也。不知焉者謂之愛也。生斯無禦。非自外鑠也。非襲而取也。故聖人之教。貴乎格。求行之者也。故唯其物。聃也者。務言之者也。夫言之者。明一端者也。挙一而廃百。所以害也。後儒乃非聃。而傚其尤。言之弗已。名存而物亡。仁義道徳之説盛。而道益不明。方今之世。滔滔者天下皆聃之徒哉。又安知聖人之教莫尚焉。是豈有古今哉。故吾退而求諸六経。唯其物。
書き下し
夫れ六経は物なり。道具さに焉に存す。諸を行事に施して深切著明なり。聖人の空言を悪むや、天何をか言はんや、四時行はれ、百物生ず、と。教への術なり。憤せずんば啓せず、悱せずんば発せず、と。夫の生ずるを竢つなり。知らしめざる者は之を愛と謂ふなり。生ずれば斯に禦ぐ無し。外より鑠するに非ざるなり。襲ひて取るに非ざるなり。故に聖人の教へは格を貴ぶ。之を行ふ者を求むるなり。故に唯だ其の物なり。聃なる者は、務めて之を言ふ者なり。夫れ之を言ふ者は、一端を明らかにする者なり。一を挙げて百を廃す、害する所以なり。後儒乃ち聃を非として、其の尤に傚ふ。之を言ひて已まず、名存して物亡ぶ。仁義道徳の説盛んにして、道益〻明らかならず。方今の世、滔滔たる者天下皆聃の徒なるかな。又た安くんぞ聖人の教への焉より尚き莫きを知らん。是れ豈に古今有らんや。故に吾れ退きて諸を六経に求む。唯だ其の物なり。
現代語訳
そもそも六経は「物」である。道はその中にすっかり備わっている。それを実際の事柄に当てはめると、深く切実で、はっきりと明らかになる。聖人は空しい言葉を嫌った。「天は何か言うだろうか。四季はめぐり、万物は生まれている」(『論語』)というのは、教えの術である。「心に憤りが満ちるまでは啓かず、言いたくて口ごもるまでは導かない」(『論語』)というのは、相手の中で育つのを待つことである。あえて知らせずにおくことを、愛というのである。育ってしまえば、それを妨げるものはない。外から溶かし込んだものではなく、不意打ちで奪い取ったものでもないからだ。だから聖人の教えは「格(物が来たって身につくこと)」を重んじ、それを実行する者を求める。だから、ただ物なのである。老子は、ひたすら言葉で語ろうとする者である。言葉で語る者は、一端を明らかにするにすぎない。一つを挙げて百を捨てる、それが害になるゆえんである。後世の儒者は老子を非難しながら、その最も悪いところをまねた。語り続けてやまず、名は残っても物は失われた。仁義道徳の議論は盛んになったが、道はいよいよわからなくなった。今の世の中、滔々と流れに乗っている者は、天下みな老子の徒である。それでは聖人の教えに勝るものがないことを、どうして知りえようか。これに古今の違いなどあろうか。だから私は身を退いて、六経に求める。ただ、その物を。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『童子問』卷上問ふ、易知易行・万世不易の理の、実に至極為ることは、既に命を聞くことを得たり。然れども心中猶ほ未だ釈然たること能はず。願はくは易く暁りやすきの語を以て、申ねて諭を垂れよと。曰く、人の外に道無く、道の外に人無し。人を以て人の道を行ふ、何の難知難行か之れ有らん。夫れ人の霊を以てすと雖も、然れども羽ある者の翔り、鱗ある者の潜るが若くなること能はざる者は、其の性異なればなり。堯の服を服し、堯の行ひを行ひ、堯の言を誦するに於ては、則ち復た甚だ難き者無し。其の道同じければなり。故に孟子曰く、夫れ道は一のみと。若し夫れ人倫を外にして道を求むる者は、猶ほ風を捕へ影を捉ふるがごとく、必ず得べからざるなり。故に道を知る者は、必ず之を邇きに求む。其の道を以て高しと為し、遠しと為し、企て及ぶべからずと為す者は、皆道の本然に非ず、自ら惑ふの致す所なり。
-
『弁名』理氣人欲包犠氏網罟を為る、蓋し諸を離に取る、神農氏耒耜を為る、蓋し諸を益に取るが如し。易は本と象を取りて器を作るの義有り。故に爾か云ふ。形而上は、器未だ形を成さざる以前、唯だ易の道有るのみを謂ふ。其の形を成すの後に至りて、始めて其の器有り。皆器を制するを主として之を言ふ。下文遂に曰く、「化して之を裁する、之を変と謂ふ。推して之を行ふ、之を通と謂ふ。挙げて之を天下の民に措く、之を事業と謂ふ」と。是れ皆易を賛するの言なり。道器変通事業は、皆易を以て之を言ふのみ。上章に「戸を闔づる之を坤と謂ひ、戸を闢く之を乾と謂ふ。一たび闔ぢ一たび闢く之を変と謂ひ、往来窮まらざる之を通と謂ふ。見はるる乃ち之を象と謂ひ、形はるる乃ち之を器と謂ふ。制して之を用ふる之を法と謂ひ、利用出入して民咸之を用ふる之を神と謂ふ」と曰ふが如きも、是れ又た道器を以て対言せず。其の義以て見るべきのみ。豈に大謬に非ずや。
-
『慎思録』巻之四術者の陋なり。陰陽を指して道と為すは、猶ほ天地を指して道と為し、聖人を指して道と為すがごとし。此れ道の在る所を以て言ふ。其の実、天地陰陽は即ち是れ道の存する所にして、還た是れ道中に在る所の物なり。蓋し道を以て主と為して之を言へば、則ち天地万物は皆是れ道中の物なり。天地万物を以て主と為して之を言へば、則ち道は天地万物の中に在りて、之が主為る者なり。陰陽の如きは、則ち又天地万物の比に非ず。同異離合を以て之を言ふべからず。故に易に陰陽を以て道を言ふは、此を以てなり。
-
『弁名』理氣人欲仁斎先生曰く、「道は行ふ所を以て言ふ、活字なり。理は存する所を以て言ふ、死字なり。聖人は道を見ること実なり、故に其の理を説くや活なり。老氏は道を見ること虚なり、故に其の理を説くや死なり」と。又た曰く、「道は本と活字、其の生生化化の妙を形容する所以なり。理の字の若きは本と死字、玉に従ひ里に従ふ、玉石の文理を謂ふ。以て事物の条理を形容すべくして、以て天地生生化化の妙を形容するに足らず」と。此等の議論、皆痴人の夢を説くが如し。
-
『弁名』道小人の道長ずと曰ひ、戎狄の道と曰ふ者有り。皆其の由る所を以て俗を成し、自ら一道有るに似たり。故に之を言ふ。善人の道と曰ひ、父の道を改むること無しと曰ふ者有り。亦た其の由る所を言ふのみ。必ずしも先王の道ならず。凡そ其の意此を以て道と為して之に由る者なり。是の道や何ぞ以て臧しとするに足らんと曰ふ者有り。詩書礼楽は、皆先王の道なり。故に一言半句と雖も亦た称して道と為すのみ。
-
『慎思録』巻之三聖人の道は、本自ら分明なり。故に夫婦の愚も、以て与り知るべし。本自ら簡易なり。故に夫婦の不肖も、以て能く行ふべし。然れども世に之を知り之を行ふ者鮮きは、何ぞや。蓋し教無く習無きに因るなり。
人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る