学論抄録 / 兵学の師弟の系譜と著者の学びの来歴
(義家弟新羅三郎義光亦同受之)世々相傳至信玄、以爲武田家法也、又京師堀川有鬼一法眼者、得其遺法而立敎也精矣、鞍馬僧八人受其刀術、市原次郎一人受其戰法、源義經亦搜其秘而得戰勢之妙云、後山本勘助入道道鬼得其法、而鳴于世、武田信玄得道鬼、而潤飾家法、訓練兵士、數有戰功、竟其法超越乎諸家、後世以爲準則、馬塲美濃守信房及早川彌三右衞門幸憲等得其法、小幡勘兵衞景憲次之、後歸于 當今幕下、而敎授于一世、徒弟甚多、北條安房守氏長得其宗、以英傑之資、習慣之久、遂精通和漢文武之事理加之奉 特旨、諮紅毛國之兵法、紅毛之貢七由利安掩留于東都、凡三年、與譯士數輩、日夕會談、戰法及火術、究其蘊奧、勤勞亦非他比、而得崛起悟備公以來既絶之妙術也、其義子福島傳兵衞國隆其徒山鹿甚五左衞門義矩等相次鳴于世、土佐府廣瀨傳左衞門實常受國隆先生陶冶、頗得旨焉、其他類刻隊從行、徒甘糟粕耳、俊仍幼承氏長先生季子守約先生之敎、(名氏如、號新左衞門、佐渡州奉行、享保年間、以家學敎蒙淸問、)爾來潛心用力、五十餘年于今、愧駑鈍之資、雖不能徵稱微、然精神所注、亦未無千慮之一得也、家藏弊帚雖不當錢、自以珍焉、顧於文學、則世不乏其人、誠不待吾曹之修爲而明矣、
新字:(義家弟新羅三郎義光亦同受之)世々相伝至信玄、以為武田家法也、又京師堀川有鬼一法眼者、得其遺法而立教也精矣、鞍馬僧八人受其刀術、市原次郎一人受其戦法、源義経亦捜其秘而得戦勢之妙云、後山本勘助入道道鬼得其法、而鳴于世、武田信玄得道鬼、而潤飾家法、訓練兵士、数有戦功、竟其法超越乎諸家、後世以為準則、馬塲美濃守信房及早川弥三右衛門幸憲等得其法、小幡勘兵衛景憲次之、後帰于 当今幕下、而教授于一世、徒弟甚多、北条安房守氏長得其宗、以英傑之資、習慣之久、遂精通和漢文武之事理加之奉 特旨、諮紅毛国之兵法、紅毛之貢七由利安掩留于東都、凡三年、与訳士数輩、日夕会談、戦法及火術、究其蘊奥、勤労亦非他比、而得崛起悟備公以来既絶之妙術也、其義子福島伝兵衛国隆其徒山鹿甚五左衛門義矩等相次鳴于世、土佐府広瀨伝左衛門実常受国隆先生陶冶、頗得旨焉、其他類刻隊従行、徒甘糟粕耳、俊仍幼承氏長先生季子守約先生之教、(名氏如、号新左衛門、佐渡州奉行、享保年間、以家学教蒙清問、)爾来潜心用力、五十余年于今、愧駑鈍之資、雖不能徴称微、然精神所注、亦未無千慮之一得也、家蔵弊帚雖不当銭、自以珍焉、顧於文学、則世不乏其人、誠不待吾曹之修為而明矣、
書き下し
(義家の弟新羅三郎義光亦た同じく之を受く)世々相伝へて信玄に至り、以て武田家の法と為す。又た京師堀川に鬼一法眼といふ者有り、其の遺法を得て教を立つること精し。鞍馬の僧八人其の刀術を受け、市原次郎一人其の戦法を受く。源義経も亦た其の秘を捜して戦勢の妙を得たりと云ふ。後に山本勘助入道道鬼、其の法を得て、世に鳴る。武田信玄、道鬼を得て、家法を潤飾し、兵士を訓練し、数々戦功有り、竟に其の法諸家を超越し、後世以て準則と為す。馬場美濃守信房及び早川弥三右衛門幸憲等其の法を得、小幡勘兵衛景憲之に次ぐ。後に当今の幕下に帰し、一世に教授す。徒弟甚だ多し。北条安房守氏長其の宗を得、英傑の資を以て、習慣の久しき、遂に和漢文武の事理に精通す。加之、特旨を奉じ、紅毛国の兵法を諮る。紅毛の貢七由利安、東都に留まること凡そ三年、訳士数輩と、日夕会談し、戦法及び火術、其の蘊奥を究む。勤労も亦た他に比するに非ず。而して崛起して、備公以来既に絶えたる妙術を悟り得たり。其の義子福島伝兵衛国隆、其の徒山鹿甚五左衛門義矩等相次いで世に鳴る。土佐府広瀬伝左衛門実常、国隆先生の陶冶を受け、頗る旨を得たり。其の他は刻隊従行に類し、徒らに糟粕に甘んずるのみ。俊は仍って幼にして氏長先生季子守約先生(名は氏如、号は新左衛門、佐渡州奉行。享保年間、家学を以て清問に教蒙す)の教へを承く。爾来心を潜め力を用ふること、五十余年今に于いてす。駑鈍の資を愧づ、微を徴称すること能はずと雖も、然れども精神の注ぐ所、亦た未だ千慮の一得無きにあらざるなり。家蔵の弊帚は銭に当たらずと雖も、自ら以て珍とす。顧みるに文学に於いては、則ち世に其の人に乏しからず、誠に吾が曹の修為を待たずして明らかなり。
現代語訳
(義家の弟の新羅三郎義光もまた同じくこれを受けた)代々相伝えて信玄に至り、武田家の法としました。また京都の堀川に鬼一法眼という者がおり、その遺法を得て教えを立てることが精密でした。鞍馬の僧八人がその刀術を受け、市原次郎ひとりがその戦法を受けました。源義経もその秘を探って戦勢の妙を得たといいます。後に山本勘助入道道鬼がその法を得て、世に名を知られました。武田信玄は道鬼を得て、家法に磨きをかけ、兵士を訓練し、しばしば戦功を立て、ついにその法は諸家を超え、後世の準則とされました。馬場美濃守信房、および早川弥三右衛門幸憲らがその法を得て、小幡勘兵衛景憲がこれに次ぎました。後に当今の幕下(幕府)に帰し、一世に教授し、門人は非常に多くいました。北条安房守氏長がその宗(正統)を得て、英傑の資質と長い習練により、ついに日本と中国の文武の事理に精通しました。そのうえ特別の命を奉じ、オランダの兵法を諮問しました。オランダの貢七由利安という者が江戸に約三年留まり、通訳数人と、朝夕会談して、戦法および火術の奥義を究めました。その勤労も他に比べるものではありません。こうして世に抜きんでて、吉備公以来すでに絶えていた妙術を悟り得ました。その義子の福島伝兵衛国隆、その門人の山鹿甚五左衛門義矩らが相次いで世に名を知られました。土佐の広瀬伝左衛門実常は、国隆先生の指導を受け、かなり趣旨を得ました。そのほかの者は、隊列を刻むように形だけ従って行くようなもので、ただ糟粕に甘んじるだけです。私(俊)は幼いころ、氏長先生の末子の守約先生(名は氏如、号は新左衛門、佐渡奉行。享保年間に、家学をもって御下問に応じ、教え導いた)の教えを受けました。以来、心を潜め力を用いて、今に五十余年になります。愚鈍の資質を恥じ、微細な点を明らかにして称えることはできませんが、精神を注いだところには、愚者の千慮の一得くらいはないわけでもありません。家に蔵する古ぼうきは銭の値打ちにならなくても、自分では珍重しています。顧みるに、文学については、世にその人が乏しくなく、私たちが修めるまでもなく明らかです。
解説
この章句が説くこと
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