学論抄録 / 吉備真備に始まる兵学の伝来と秘伝の系譜
赤心黑心之宗源、天柱國柱之元本、學者須奉若以爲精魂、博覽以緣飾之、不則不免博矣必失於雜、不知所約、而有喪性之所稟、而爲異物之過誤也、吾師之敎、立定脚跟於 國神之傳、正此之謂也、竊按國史、迨吉備朝臣眞備歸自唐、進其所習唐禮百餘卷、軍制亦在焉、聖武帝特嘉之、設軍團於諸州、以訓練兵士、造武庫納兵器、年遣檢使修補其破壞、天平寶字三年令太宰府造行軍式、同四年遣人於太宰府、就大貳吉備朝臣、令習諸葛亮八陣、孫子九地及結營向背、由是觀之、本邦先是雖有陣法器械、然至吉備公、蓋寢詳矣、又應知公之所敎、專在結營向背之習、武學東來、公歿後年代久遠、近日知之者殆希矣、可謂失古法也、世傳云、 神功皇后始得兵書一卷、秘之不傳世、獨應神帝受之、亦深秘焉、晚年謂、國之利器、不可遍示人、竟焚之、吞而崩、蓋是帳中密事、當時未顯乎外、故漏於史者歟、又云、吉備公所傳、世換時移、而漸廢弛、醍醐帝深憂之、左大辯宰相大江維時轉大納言、使其具幣物求之於唐、乃謁龍首將軍者、受六韜三略及軍勝圖、而朱雀帝承平四年歸于本朝、亦秘不傳於人、著陰陽書若干卷、目曰訓閱集、以塞時人之責云、後征夷使陸奧守源義家以累世將族在其任、奏請傳江家之兵法、帝可之、乃維時六世孫中納言匡房奉勅、以應神帝所秘故、詣于男山告 神、於祠前授之、實白川帝天曆二年戊午三月十二日云、雖無史所考、然口碑所載久矣。
新字:赤心黒心之宗源、天柱国柱之元本、学者須奉若以為精魂、博覧以縁飾之、不則不免博矣必失於雑、不知所約、而有喪性之所稟、而為異物之過誤也、吾師之教、立定脚跟於 国神之伝、正此之謂也、窃按国史、迨吉備朝臣真備帰自唐、進其所習唐礼百余巻、軍制亦在焉、聖武帝特嘉之、設軍団於諸州、以訓練兵士、造武庫納兵器、年遣検使修補其破壊、天平宝字三年令太宰府造行軍式、同四年遣人於太宰府、就大貳吉備朝臣、令習諸葛亮八陣、孫子九地及結営向背、由是観之、本邦先是雖有陣法器械、然至吉備公、蓋寝詳矣、又応知公之所教、専在結営向背之習、武学東来、公歿後年代久遠、近日知之者殆希矣、可謂失古法也、世伝云、 神功皇后始得兵書一巻、秘之不伝世、独応神帝受之、亦深秘焉、晩年謂、国之利器、不可遍示人、竟焚之、呑而崩、蓋是帳中密事、当時未顕乎外、故漏於史者歟、又云、吉備公所伝、世換時移、而漸廃弛、醍醐帝深憂之、左大弁宰相大江維時転大納言、使其具幣物求之於唐、乃謁竜首将軍者、受六韜三略及軍勝図、而朱雀帝承平四年帰于本朝、亦秘不伝於人、著陰陽書若干巻、目曰訓閲集、以塞時人之責云、後征夷使陸奥守源義家以累世将族在其任、奏請伝江家之兵法、帝可之、乃維時六世孫中納言匡房奉勅、以応神帝所秘故、詣于男山告 神、於祠前授之、実白川帝天暦二年戊午三月十二日云、雖無史所考、然口碑所載久矣。
書き下し
赤心黒心の宗源、天柱国柱の元本なり。学者須らく奉若して以て精魂と為し、博覧して以て之を縁飾すべし。不ずんば則ち博なれば必ず雑に失するを免れず、約する所を知らずして、性の稟くる所を喪ひ、異物の過誤を為す有らん。吾が師の教へ、脚跟を国神の伝に立て定むとは、正に此の謂なり。竊かに国史を按ずるに、吉備朝臣真備の唐より帰るに迨び、其の習ふ所の唐礼百余巻を進む。軍制も亦た焉に在り。聖武帝特に之を嘉し、軍団を諸州に設けて、以て兵士を訓練し、武庫を造りて兵器を納め、年ごとに検使を遣はして其の破壊を修補せしむ。天平宝字三年、太宰府に行軍式を造らしむ。同四年、人を太宰府に遣はし、大弐吉備朝臣に就きて、諸葛亮の八陣、孫子の九地及び結営向背を習はしむ。是に由りて之を観れば、本邦是より先に陣法器械有りと雖も、吉備公に至りて、蓋し寝く詳らかなり。又た応に知るべし、公の教ふる所は、専ら結営向背の習に在るを。武学東来し、公歿して後年代久遠、近日之を知る者殆ど希なり。古法を失ふと謂ふべし。世に伝へて云ふ、神功皇后始めて兵書一巻を得、之を秘して世に伝へず、独り応神帝之を受け、亦た深く秘す。晩年謂ふ、国の利器は、遍く人に示すべからずと。竟に之を焚き、吞みて崩ず。蓋し是れ帳中の密事、当時未だ外に顕れず、故に史に漏るるか。又た云ふ、吉備公の伝ふる所、世換はり時移りて、漸く廃弛す。醍醐帝深く之を憂ひ、左大弁宰相大江維時、大納言に転ず、其をして幣物を具へて之を唐に求めしむ。乃ち龍首将軍に謁する者、六韜・三略及び軍勝図を受けて、朱雀帝承平四年、本朝に帰る。亦た秘して人に伝へず、陰陽書若干巻を著し、目して訓閲集と曰ひ、以て時人の責めを塞ぐと云ふ。後に征夷使陸奥守源義家、累世の将族を以て其の任に在り、奏請して江家の兵法を伝へんとす。帝之を可す。乃ち維時の六世の孫中納言匡房、勅を奉じ、応神帝の秘する所なるを以ての故に、男山に詣でて神に告げ、祠前に於いて之を授く。実に白川帝天暦二年戊午三月十二日と云ふ。史の考ふる所無しと雖も、然れども口碑の載する所久し。
現代語訳
(水土自然の明らかな教えは)赤心・黒心の宗源であり、天柱・国柱の元本です。学ぶ者は、これを奉じ従って精魂とし、博覧してこれを飾りとすべきです。そうしなければ、博くなって必ず雑に陥ることを免れず、約めるところを知らず、天から受けた性を失い、異物となる過ちを犯します。私の師の教えが、脚の踵を国神の伝えに据えるというのは、まさにこのことです。ひそかに国史を考えると、吉備朝臣真備が唐から帰るに及び、学んだ唐礼百余巻を献上しました。軍制もその中にありました。聖武帝は特にこれを喜び、軍団を諸州に設けて兵士を訓練し、武庫をつくって兵器を納め、毎年検使を遣わして破損を修繕させました。天平宝字三年、大宰府に行軍式を造らせました。同四年、人を大宰府に遣わし、大弐の吉備朝臣のもとで、諸葛亮の八陣、孫子の九地、および結営向背を習わせました。このことから見ると、わが国にはそれ以前にも陣法や器械はありましたが、吉備公に至って、よほど詳しくなったのでしょう。また知るべきことに、公の教えたのは、専ら結営向背の習いにありました。武学が東に伝わり、公が亡くなって後、年代が久しく、近ごろこれを知る者はほとんどまれです。古法を失ったと言うべきです。世に伝えて言うには、神功皇后が初めて兵書一巻を得て、これを秘して世に伝えず、ただ応神帝がこれを受け、やはり深く秘めました。晩年に「国の利器は、広く人に示してはならない」と言って、ついにこれを焼き、飲み込んで崩御されたといいます。おそらく陣中の密事で、当時は外に現れず、そのため史書から漏れたのでしょうか。また言うには、吉備公の伝えたものは、世が移り時が変わって、しだいに廃れました。醍醐帝は深くこれを憂い、左大弁・宰相の大江維時(のち大納言に転じる)に、贈り物を整えて唐に求めさせました。そこで龍首将軍に謁した者が、六韜・三略および軍勝図を受けて、朱雀帝の承平四年に本朝に帰りました。これも秘して人に伝えず、陰陽書若干巻を著し、題して『訓閲集』とし、これで時の人の責めをふさいだといいます。後に征夷使で陸奥守の源義家が、代々の将の家柄としてその任にあり、奏上して江家の兵法を伝えたいと請い、帝はこれを許しました。そこで維時の六世の孫の中納言匡房が、勅を奉じ、応神帝の秘めたものであるため、男山に詣でて神に告げ、祠の前でこれを授けました。それは実に白川帝の天暦二年戊午三月十二日だといいます。史書に考証できるものはありませんが、口碑に載ることは久しいのです。
解説
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