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福沢諭吉小品集 / 瘠我慢の説・第10段

天下後世に定論もあるべきなれば、氏の為めに謀れば、たとい今日の文明流に従って維新後に幸に身を全うすることを得たるも、自から省みて我立国の為めに至大至重なる上流士人の気風を害したるの罪を引き、維新前後の吾身の挙動は一時の権道なり、権りに和議を講じて円滑に事を纏めたるは、ただその時の兵禍を恐れて人民を塗炭に救わんが為めのみなれども、本来立国の要は瘠我慢の一義に在り、いわんや今後敵国外患の変なきを期すべからざるにおいてをや。かかる大切の場合に臨んでは兵禍は恐るるに足らず、天下後世国を立てて外に交わらんとする者は、努吾維新の挙動を学んで権道に就くべからず、俗にいう武士の風上にも置かれぬとはすなわち吾一身の事なり、後世子孫これを再演するなかれとの意を示して、断然政府の寵遇を辞し、官爵を棄て利禄を抛ち、単身去てその跡を隠すこともあらんには、世間の人も始めてその誠の在るところを知りてその清操に服し、旧政府放解の始末も真に氏の功名に帰すると同時に、一方には世教万分の一を維持するに足るべし。 すなわち我輩の所望なれども、今その然らずして恰も国家の功臣を以て傲然自から居るがごとき、必ずしも窮屈なる三河武士の筆法を以て弾劾するを須たず、世界立国の常情に訴えて愧るなきを得ず。啻に氏の私の為めに惜しむのみならず、士人社会風教の為めに深く悲しむべきところのものなり。

書き下し

天下後世に定論もあるべきなれば、氏の為めに謀れば、たとい今日の文明流に従って維新後に幸に身を全うすることを得たるも、自から省みて我立国の為めに至大至重なる上流士人の気風を害したるの罪を引き、維新前後の吾身の挙動は一時の権道なり、権りに和議を講じて円滑に事を纏めたるは、ただその時の兵禍を恐れて人民を塗炭に救わんが為めのみなれども、本来立国の要は瘠我慢の一義に在り、いわんや今後敵国外患の変なきを期すべからざるにおいてをや。かかる大切の場合に臨んでは兵禍は恐るるに足らず、天下後世国を立てて外に交わらんとする者は、努吾維新の挙動を学んで権道に就くべからず、俗にいう武士の風上にも置かれぬとはすなわち吾一身の事なり、後世子孫これを再演するなかれとの意を示して、断然政府の寵遇を辞し、官爵を棄て利禄を抛ち、単身去てその跡を隠すこともあらんには、世間の人も始めてその誠の在るところを知りてその清操に服し、旧政府放解の始末も真に氏の功名に帰すると同時に、一方には世教万分の一を維持するに足るべし。 すなわち我輩の所望なれども、今その然らずして恰も国家の功臣を以て傲然自から居るがごとき、必ずしも窮屈なる三河武士の筆法を以て弾劾するを須たず、世界立国の常情に訴えて愧るなきを得ず。啻に氏の私の為めに惜しむのみならず、士人社会風教の為めに深く悲しむべきところのものなり。

現代語訳

天下後世に定まった評価もあるはずですから、氏のために考えるなら、たとえ今日の文明流に従って、維新後に幸いにも身を全うできたとしても、自ら省みて、わが国を立てるうえで極めて重要な上流の士人の気風を害した罪を認めるべきでした。維新前後の自分の行動は一時の便法であった、仮に和議を結んで円滑に事をまとめたのは、ただその時の戦禍を恐れて人民を苦しみから救うためだけだった。しかし本来、国を立てる要は痩せ我慢という一つの義にあり、まして今後、敵国外患の変事がないとは期待できない。そうした大切な場合には戦禍は恐れるに足りない。天下後世、国を立てて外国と交わろうとする者は、決してわが維新の行動を学んで便法に就いてはならない。世にいう武士の風上にも置けないとは、すなわちわが身のことである。後の世の子孫は、これを繰り返すな。こうした思いを示して、きっぱりと政府の厚遇を辞し、官位や爵位を捨て、利益や俸禄を投げうち、単身で去って跡を隠すようなことがあれば、世間の人もはじめてその誠のありかを知ってその清い操に服し、旧政府を解体した顛末も、真に氏の功名に帰すると同時に、一方では世の教えの万分の一を維持するに足りたでしょう。 これがすなわち私の望みです。今、そうではなく、あたかも国家の功臣のように傲然と居座っているのは、必ずしも窮屈な三河武士の筆法で弾劾するまでもなく、世界の立国の常識に訴えても恥じずにはいられません。単に氏個人のために惜しむだけでなく、士人社会の風教のために深く悲しむべきことです。

解説

福沢が勝海舟に望んだ身の処し方を具体的に述べる段です。無血開城は一時の便法であり、国を立てる要は痩せ我慢にあると自ら認めて官を辞し身を隠せば、功績も真に評価され士風も保たれた、という主張です。リーダーの進退が組織の規範を示すという視点は今も有効ですが、辞職という形でしか責任は示せないのか、公職に留まって働くことにも意義があるのではないか、という反論も成り立ちます。そうした論の一方的な面も含めて読みたい箇所です。

この章句が説くこと

痩せ我慢権道進退士風清操勝海舟

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