福沢諭吉小品集 / 瘠我慢の説・第11段
また勝氏と同時に榎本武揚なる人あり。これまた序ながら一言せざるを得ず。この人は幕府の末年に勝氏と意見を異にし、飽くまでも徳川の政府を維持せんとして力を尽し、政府の軍艦数艘を率いて箱館に脱走し、西軍に抗して奮戦したれども、ついに窮して降参したる者なり。この時に当り徳川政府は伏見の一敗復た戦うの意なく、ひたすら哀を乞うのみにして人心既に瓦解し、その勝算なきは固より明白なるところなれども、榎本氏の挙は所謂武士の意気地すなわち瘠我慢にして、その方寸の中には竊に必敗を期しながらも、武士道の為めに敢て一戦を試みたることなれば、幕臣また諸藩士中の佐幕党は氏を総督としてこれに随従し、すべてその命令に従て進退を共にし、北海の水戦、箱館の籠城、その決死苦戦の忠勇は天晴の振舞にして、日本魂の風教上より論じて、これを勝氏の始末に比すれば年を同うして語るべからず。 然るに脱走の兵、常に利あらずして勢漸く迫り、また如何ともすべからざるに至りて、総督を始め一部分の人々は最早これまでなりと覚悟を改めて敵の軍門に降り、捕われて東京に護送せられたるこそ運の拙きものなれども、成敗は兵家の常にして固より咎むべきにあらず、新政府においてもその罪を悪んでその人を悪まず、死一等を減じてこれを放免したるは文明の寛典というべし。氏の挙動も政府の処分も共に天下の一美談にして間然すべからずといえども、氏が放免の後に更に青雲の志を起し、新政府の朝に立つの一段に至りては、我輩の感服すること能わざるところのものなり。
新字:また勝氏と同時に榎本武揚なる人あり。これまた序ながら一言せざるを得ず。この人は幕府の末年に勝氏と意見を異にし、飽くまでも徳川の政府を維持せんとして力を尽し、政府の軍艦数艘を率いて箱館に脱走し、西軍に抗して奮戦したれども、ついに窮して降参したる者なり。この時に当り徳川政府は伏見の一敗復た戦うの意なく、ひたすら哀を乞うのみにして人心既に瓦解し、その勝算なきは固より明白なるところなれども、榎本氏の挙は所謂武士の意気地すなわち瘠我慢にして、その方寸の中には窃に必敗を期しながらも、武士道の為めに敢て一戦を試みたることなれば、幕臣また諸藩士中の佐幕党は氏を総督としてこれに随従し、すべてその命令に従て進退を共にし、北海の水戦、箱館の籠城、その決死苦戦の忠勇は天晴の振舞にして、日本魂の風教上より論じて、これを勝氏の始末に比すれば年を同うして語るべからず。 然るに脱走の兵、常に利あらずして勢漸く迫り、また如何ともすべからざるに至りて、総督を始め一部分の人々は最早これまでなりと覚悟を改めて敵の軍門に降り、捕われて東京に護送せられたるこそ運の拙きものなれども、成敗は兵家の常にして固より咎むべきにあらず、新政府においてもその罪を悪んでその人を悪まず、死一等を減じてこれを放免したるは文明の寛典というべし。氏の挙動も政府の処分も共に天下の一美談にして間然すべからずといえども、氏が放免の後に更に青雲の志を起し、新政府の朝に立つの一段に至りては、我輩の感服すること能わざるところのものなり。
書き下し
また勝氏と同時に榎本武揚なる人あり。これまた序ながら一言せざるを得ず。この人は幕府の末年に勝氏と意見を異にし、飽くまでも徳川の政府を維持せんとして力を尽し、政府の軍艦数艘を率いて箱館に脱走し、西軍に抗して奮戦したれども、ついに窮して降参したる者なり。この時に当り徳川政府は伏見の一敗復た戦うの意なく、ひたすら哀を乞うのみにして人心既に瓦解し、その勝算なきは固より明白なるところなれども、榎本氏の挙は所謂武士の意気地すなわち瘠我慢にして、その方寸の中には窃に必敗を期しながらも、武士道の為めに敢て一戦を試みたることなれば、幕臣また諸藩士中の佐幕党は氏を総督としてこれに随従し、すべてその命令に従て進退を共にし、北海の水戦、箱館の籠城、その決死苦戦の忠勇は天晴の振舞にして、日本魂の風教上より論じて、これを勝氏の始末に比すれば年を同うして語るべからず。 然るに脱走の兵、常に利あらずして勢漸く迫り、また如何ともすべからざるに至りて、総督を始め一部分の人々は最早これまでなりと覚悟を改めて敵の軍門に降り、捕われて東京に護送せられたるこそ運の拙きものなれども、成敗は兵家の常にして固より咎むべきにあらず、新政府においてもその罪を悪んでその人を悪まず、死一等を減じてこれを放免したるは文明の寛典というべし。氏の挙動も政府の処分も共に天下の一美談にして間然すべからずといえども、氏が放免の後に更に青雲の志を起し、新政府の朝に立つの一段に至りては、我輩の感服すること能わざるところのものなり。
現代語訳
また、勝氏と同じころの人に榎本武揚という人がいます。これもついでながら一言せずにはいられません。この人は幕府の末年に勝氏と意見を異にして、あくまで徳川の政府を維持しようと力を尽くし、政府の軍艦数隻を率いて箱館に脱走し、西軍に抗して奮戦しましたが、ついに行き詰まって降参した者です。この時、徳川政府は伏見の一敗で再び戦う意志もなく、ひたすら哀れみを乞うばかりで、人心はすでに瓦解し、勝算がないのはもとより明らかでした。しかし榎本氏の挙は、いわゆる武士の意気地、すなわち痩せ我慢であり、その心の内では密かに必敗を覚悟しながらも、武士道のためにあえて一戦を試みたものです。そのため幕臣や諸藩士のうち幕府を助ける党派の者たちは、氏を総督として付き従い、すべてその命令に従って進退を共にし、北海の水戦、箱館の籠城での決死の苦戦の忠勇は見事な振る舞いで、日本魂の風教の面から論じれば、これを勝氏の始末と比べて、同じ年に語ることはできません。 ところが脱走の兵は常に形勢が悪く、勢いは次第に追い詰められ、もはやどうにもならなくなると、総督をはじめ一部の人々は、もはやこれまでと覚悟を改めて敵の軍門に降り、捕らわれて東京に護送されました。これは運の拙いことですが、成敗は兵家の常であり、もとより咎めるべきではありません。新政府においても、その罪を憎んでその人を憎まず、死罪を一等減じて放免したのは、文明の寛大な処置というべきでしょう。氏の行動も政府の処分も、ともに天下の一つの美談で、非の打ちどころがありませんが、氏が放免の後、改めて立身出世の志を起こし、新政府の朝廷に立つ段に至っては、私が感服できないところです。
解説
この章句が説くこと
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福沢諭吉小品集・瘠我慢の説・第12段敵に降りてその敵に仕うるの事例は古来稀有にあらず。殊に政府の新陳変更するに当りて、前政府の士人等が自立の資を失い、糊口の為めに新政府に職を奉ずるがごときは、世界古今普通の談にして毫も怪しむに足らず、またその人を非難すべきにあらずといえども、榎本氏の一身はこれ普通の例を以て掩うべからざるの事故あるがごとし。すなわちその事故とは日本武士の人情これなり。氏は新政府に出身して啻に口を糊するのみならず、累遷立身して特派公使に任ぜられ、またついに大臣にまで昇進し、青雲の志達し得て目出度しといえども、顧みて往事を回想するときは情に堪えざるものなきを得ず。 当時決死の士を糾合して北海の一隅に苦戦を戦い、北風競わずしてついに降参したるは是非なき次第なれども、脱走の諸士は最初より氏を首領としてこれを恃み、氏の為めに苦戦し氏の為めに戦死したるに、首領にして降参とあれば、たとい同意の者あるも、不同意の者は恰も見捨てられたる姿にして、その落胆失望はいうまでもなく、ましてすでに戦死したる者においてをや。死者若し霊あらば必ず地下に大不平を鳴らすことならん。伝え聞く、箱館の五稜郭開城のとき、総督榎本氏より部下に内意を伝えて共に降参せんことを勧告せしに、一部分の人はこれを聞て大に怒り、元来今回の挙は戦勝を期したるにあらず、ただ武門の習として一死以て二百五十年の恩に報るのみ、総督もし生を欲せば出でて降参せよ、我等は我等の武士道に斃れんのみとて憤戦止まらず、その中には父子諸共に切死したる人もありしという。 烏江水浅騅能逝、一片義心不可東とは、往古漢楚の戦に、楚軍振わず項羽が走りて烏江の畔に至りしとき、或人はなお江を渡りて、再挙の望なきにあらずとてその死を留めたりしかども、羽はこれを聴かず、初め江東の子弟八千を率いて西し、幾回の苦戦に戦没して今は一人の残る者なし、斯る失敗の後に至り、何の面目か復た江東に還りて死者の父兄を見んとて、自尽したるその時の心情を詩句に写したるものなり。
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福沢諭吉小品集・瘠我慢の説・第15段榎本氏が主戦論をとりて脱走し、遂に力尽きて降りたるまでは、幕臣の本分に背かず、忠勇の功名美なりといえども、降参放免の後に更に青雲の志を発して新政府の朝に富貴を求め得たるは、曩にその忠勇を共にしたる戦死者負傷者より爾来の流浪者貧窮者に至るまで、すべて同挙同行の人々に対して聊か慚愧の情なきを得ず。これまたその功名の価を損ずるところのものにして、要するに二氏の富貴こそその身の功名を空うするの媒介なれば、今なお晩からず、二氏共に断然世を遁れて維新以来の非を改め、以て既得の功名を全うせんことを祈るのみ。天下後世にその名を芳にするも臭にするも、心事の決断如何に在り、力めざるべからざるなり。 然りといえども人心の微弱、或は我輩の言に従うこと能わざるの事情もあるべし。これまた止むを得ざる次第なれども、兎に角に明治年間にこの文字を記して二氏を論評したる者ありといえば、また以て後世士人の風を維持することもあらんか、拙筆また徒労にあらざるなり。
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福沢諭吉小品集・瘠我慢の説・第14段古来の習慣に従えば、凡そこの種の人は遁世出家して死者の菩提を弔うの例もあれども、今の世間の風潮にて出家落飾も不似合とならば、ただその身を社会の暗処に隠してその生活を質素にし、一切万事控目にして世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ。 これを要するに維新の際、脱走の一挙に失敗したるは、氏が政治上の死にして、たといその肉体の身は死せざるも最早政治上に再生すべからざるものと観念して唯一身を慎み、一は以て同行戦死者の霊を弔してまたその遺族の人々の不幸不平を慰め、また一には凡そ何事に限らず大挙してその首領の地位に在る者は、成敗共に責に任じて決してこれを遁るべからず、成ればその栄誉を専らにし敗すればその苦難に当るとの主義を明にするは、士流社会の風教上に大切なることなるべし。すなわちこれ我輩が榎本氏の出処に就き所望の一点にして、独り氏の一身の為めのみにあらず、国家百年の謀において士風消長の為めに軽々看過すべからざるところのものなり。 以上の立言は我輩が勝、榎本の二氏に向て攻撃を試みたるにあらず。謹んで筆鋒を寛にして苛酷の文字を用いず、以てその人の名誉を保護するのみか、実際においてもその智謀忠勇の功名をば飽くまでも認る者なれども、凡そ人生の行路に富貴を取れば功名を失い、功名を全うせんとするときは富貴を棄てざるべからざるの場合あり。二氏のごときは正しくこの局に当る者にして、勝氏が和議を主張して幕府を解きたるは誠に手際よき智謀の功名なれども、これを解きて主家の廃滅したるその廃滅の因縁が、偶ま以て一旧臣の為めに富貴を得せしむるの方便となりたる姿にては、たといその富貴は自から求めずして天外より授けられたるにもせよ、三河武士の末流たる徳川一類の身として考うれば、折角の功名手柄も世間の見るところにて光を失わざるを得ず。
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福翁自伝・雑記・独立敢て新事例を開く(6)夫れから榎本(当年の釜次郎、今の武揚)の話をしましょう。前に申す通りに古川節蔵は私の家から脱走したようなもので、後で聞て見れば榎本よりか先きに脱走したそうで、房州鋸山とか何処とかに居た佐幕党の人を長崎丸に乗せて、ソレを箱根山に上げて、ソレで箱根の騒動が起たので、あれは古川節蔵が遣たのだと申します。節蔵が脱走した後で以て、脱走艦は追々函館に行て、夫れから古川の長崎丸と一処に又此方へ侵しに来た、と云うのは官軍方の東艦、即ち私などが亜米利加から持て来た東艦が官軍の船になって居る、ソレを分捕りしようと云うことを企てゝ、そうして奥州宮古と云う港で散々戦た所が、負けて仕舞て到頭降参して、夫れから東京へ護送せられて、その時は法律も裁判所も何もないときで、糺問所と云う牢屋のようなものがあって、その糺問所の手に掛って古川節蔵と、前年、私が米国に同行した小笠原賢蔵と云う海軍士官と、二人連れで霞ヶ関の芸州の屋敷に監禁されて居る。ソコで私は前には馬鹿をするなと云て止めたのであるけれども、監禁されて居ると云えば可哀想だ。幸い芸州の屋敷に懇意な医者が居るから、その医者の処に行て、ドウかして古川に遇いたいものだが遇わして呉れぬかと云たらば、番人も何も居ないようであったが、その医者の取計いで、遇わして呉れました。夫れから長屋の暗いような処に行て見ると二人がチャンと這入て居るから、私が先ず言葉を掛けて、「ザマア見ろ、何だ、仕様がないじゃないか。止めまいことか、あれ程乃公が止めたじゃないか。今更ら云たって仕方はないが、何しろ喰物が不自由だろう、着物が足りなかろうと云て、夫れから宅に帰て毛布を持て行て遣たり、牛肉の煮たのを持て行て遣たり、戦争中の様子や監禁の苦しさ加減を聞たりした事があるので、私は〔能く〕糺問所の有様を知て居ます。
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福沢諭吉小品集・瘠我慢の説・第13段漢楚軍談のむかしと明治の今日とは世態固より同じからず。三千年前の項羽を以て今日の榎本氏を責るはほとんど無稽なるに似たれども、万古不変は人生の心情にして、氏が維新の朝に青雲の志を遂げて富貴得々たりといえども、時に顧みて箱館の旧を思い、当時随行部下の諸士が戦没し負傷したる惨状より、爾来家に残りし父母兄弟が死者の死を悲しむと共に、自身の方向に迷うて路傍に彷徨するの事実を想像し聞見するときは、男子の鉄腸もこれが為めに寸断せざるを得ず。夜雨秋寒うして眠就らず残灯明滅独り思うの時には、或は死霊生霊無数の暗鬼を出現して眼中に分明なることもあるべし。 蓋し氏の本心は、今日に至るまでもこの種の脱走士人を見捨てたるに非ず、その挙を美としてその死を憐まざるに非ず。今一証を示さんに、駿州清見寺内に石碑あり、この碑は、前年幕府の軍艦咸臨丸が、清水港に撃たれたるときに戦没したる春山弁造以下脱走士の為めに建てたるものにして、碑の背面に食人之食者死人之事の九字を大書して榎本武揚と記し、公衆の観に任して憚るところなきを見れば、その心事の大概は窺知るに足るべし。すなわち氏はかつて徳川家の食を食む者にして、不幸にして自分は徳川の事に死するの機会を失うたれども、他人のこれに死するものあるを見れば慷慨惆悵自から禁ずる能わず、欽慕の余り遂に右の文字をも石に刻したることならん。 すでに他人の忠勇を嘉みするときは、同時に自から省みて聊か不愉快を感ずるもまた人生の至情に免かるべからざるところなれば、その心事を推察するに、時としては目下の富貴に安んじて安楽豪奢余念なき折柄、また時としては旧時の惨状を懐うて慚愧の念を催おし、一喜一憂一哀一楽、来往常ならずして身を終るまで円満の安心快楽はあるべからざることならん。されば我輩を以て氏の為めに謀るに、人の食を食むの故を以て必ずしもその人の事に死すべしと勧告するにはあらざれども、人情の一点より他に対して常に遠慮するところなきを得ず。
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福沢諭吉小品集・瘠我慢の説・第9段騒擾の際に敵味方相対し、その敵の中に謀臣ありて平和の説を唱え、たとい弐心を抱かざるも味方に利するところあれば、その時にはこれを奇貨として私にその人を厚遇すれども、干戈すでに収まりて戦勝の主領が社会の秩序を重んじ、新政府の基礎を固くして百年の計をなすに当りては、一国の公道のために私情を去り、曩きに奇貨とし重んじたる彼の敵国の人物を目して不臣不忠と唱え、これを擯斥して近づけざるのみか、時としては殺戮することさえ少なからず。誠に無慚なる次第なれども、自から経世の一法として忍んでこれを断行することなるべし。 すなわち東洋諸国専制流の慣手段にして、勝氏のごときも斯る専制治風の時代に在らば、或は同様の奇禍に罹りて新政府の諸臣を警しむるの具に供せられたることもあらんなれども、幸にして明治政府には専制の君主なく、政権は維新功臣の手に在りて、その主義とするところ、すべて文明国の顰に傚い、一切万事寛大を主として、この敵方の人物を擯斥せざるのみか、一時の奇貨も永日の正貨に変化し、旧幕府の旧風を脱して新政府の新貴顕と為り、愉快に世を渡りて、かつて怪しむ者なきこそ古来未曽有の奇相なれ。 我輩はこの一段に至りて、勝氏の私の為めには甚だ気の毒なる次第なれども、聊か所望の筋なきを得ず。その次第は前にいえるごとく、氏の尽力を以て穏に旧政府を解き、由て以て殺人散財の禍を免かれたるその功は奇にして大なりといえども、一方より観察を下すときは、敵味方相対して未だ兵を交えず、早く自から勝算なきを悟りて謹慎するがごとき、表面には官軍に向て云々の口実ありといえども、その内実は徳川政府がその幕下たる二、三の強藩に敵するの勇気なく、勝敗をも試みずして降参したるものなれば、三河武士の精神に背くのみならず、我日本国民に固有する瘠我慢の大主義を破り、以て立国の根本たる士気を弛めたるの罪は遁るべからず。一時の兵禍を免かれしめたると、万世の士気を傷つけたると、その功罪相償うべきや。
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