福沢諭吉小品集 / 日本男子論・第27段
「日本男子論」の一編、その言既に長く、真正面より男子の品行を責めて一毫も仮さず、水も洩らさぬほどに論じ詰めたることなれば、世間無数疵持つ身の男子はあたかも弱点を襲われて遁るるに路なく、ただその心中に謂らく、内行の不取締、醜といわるれば醜なれども、詐偽・破廉恥にはあらず、また我が一身の有様は自ずから人に語るべからざる都合もあることなるに、斯くまでに酷言せずともなどといささか不平もありながら、さりとて何と答弁の辞もなくして甚だ苦しきことなるべし。我輩これを知らざるにあらずといえども、およそ今の日本国人として、現在の愉快、後世子孫の幸福は、何を以て最とするやと尋ねたらば、独立の体面を維持して日本国の栄名を不朽に伝うるのほかなかるべし。而してこの体面と栄名とを張るにいささかにても益すべきものはこれを採り、害すべきものはこれを除かんとするもまた、日本国民の身においてまさに然るべき至情なるべし。されば絶対の理論においては、人間世界の善悪邪正をいかなるものぞと論究して未だ定まらざるほどの次第なれば、まして男女の内行に関し、一夫一婦法と多妻多男法と、いずれか正、いずれか邪なる、固より明断し難しといえども、開闢以来の実験に拠り、また今日の文明説に従うときは、一家の私のため一国の公のために、多妻多男法は一夫一婦法の善きに若かず。かつ今日の世界は西洋文明の風に吹かれてこれに抵抗すべからざるの時勢なれば、文明の風に多妻多男を嫌忌して、そのこれを嫌忌するの成跡は甚だ美にして、今日の人の家を成し国を立つるに最も適当し、これに反するものは必ず害を被りて免るべからざること、既に明らかなれば、理論上の正邪はともかくも、一国人民として自国自家のために、決して軽んずべからざるの大義にして、即ち我輩がいかなる事情に逢うも、断乎として一毫をも仮さざる由縁なり。
書き下し
「日本男子論」の一編、その言既に長く、真正面より男子の品行を責めて一毫も仮さず、水も洩らさぬほどに論じ詰めたることなれば、世間無数疵持つ身の男子はあたかも弱点を襲われて遁るるに路なく、ただその心中に謂らく、内行の不取締、醜といわるれば醜なれども、詐偽・破廉恥にはあらず、また我が一身の有様は自ずから人に語るべからざる都合もあることなるに、斯くまでに酷言せずともなどといささか不平もありながら、さりとて何と答弁の辞もなくして甚だ苦しきことなるべし。我輩これを知らざるにあらずといえども、およそ今の日本国人として、現在の愉快、後世子孫の幸福は、何を以て最とするやと尋ねたらば、独立の体面を維持して日本国の栄名を不朽に伝うるのほかなかるべし。而してこの体面と栄名とを張るにいささかにても益すべきものはこれを採り、害すべきものはこれを除かんとするもまた、日本国民の身においてまさに然るべき至情なるべし。されば絶対の理論においては、人間世界の善悪邪正をいかなるものぞと論究して未だ定まらざるほどの次第なれば、まして男女の内行に関し、一夫一婦法と多妻多男法と、いずれか正、いずれか邪なる、固より明断し難しといえども、開闢以来の実験に拠り、また今日の文明説に従うときは、一家の私のため一国の公のために、多妻多男法は一夫一婦法の善きに若かず。かつ今日の世界は西洋文明の風に吹かれてこれに抵抗すべからざるの時勢なれば、文明の風に多妻多男を嫌忌して、そのこれを嫌忌するの成跡は甚だ美にして、今日の人の家を成し国を立つるに最も適当し、これに反するものは必ず害を被りて免るべからざること、既に明らかなれば、理論上の正邪はともかくも、一国人民として自国自家のために、決して軽んずべからざるの大義にして、即ち我輩がいかなる事情に逢うも、断乎として一毫をも仮さざる由縁なり。
現代語訳
「日本男子論」の一編は、その言葉もすでに長くなり、真正面から男子の品行を責めて少しも容赦せず、水も漏らさぬほどに論じ詰めたので、世間に数えきれないほどいる疵持つ身の男子は、弱点を突かれて逃げる道もなく、ただ心のなかで、家庭内の乱れは醜いといえば醜いが、詐欺や破廉恥罪ではない、また我が身の事情は人に語れない都合もあることなのに、ここまで酷く言わなくてもと、いささか不満を抱きながら、そうかといって何と答弁する言葉もなく、大いに苦しいことだろうと思います。私はそれを知らないわけではありませんが、およそ今の日本国民として、現在の愉快と、後の世の子孫の幸福は、何を最上とするのかと尋ねれば、独立の体面を保って日本国の栄誉ある名を永く伝えることのほかにないでしょう。そしてこの体面と栄名を保つのに少しでも益になるものは採り、害になるものは除こうとするのも、日本国民としてまさにそうあるべき自然の情でしょう。そうだとすれば、絶対的な理論においては、人間世界の善悪邪正とは何かを論究してもまだ定まらないほどなのですから、まして男女の関係について、一夫一婦の法と多妻多男の法のどちらが正でどちらが邪であるかは、もとより明確に断じがたいのですが、開闢以来の経験により、また今日の文明の説に従えば、一家の私のためにも一国の公のためにも、多妻多男の法は一夫一婦の法の善さにはかないません。しかも今日の世界は西洋文明の風に吹かれて、これに抵抗できない時勢ですから、文明の風は多妻多男を嫌い、それを嫌った結果は非常に立派で、今日の人が家を成し国を立てるのにきわめて適当であり、これに反するものは必ず害を被って免れられないことが、すでに明らかなので、理論上の正邪はともかく、一国の人民として自国自家のために、決して軽んじてはならない大義であり、私がいかなる事情に遭っても断固として少しも容赦しない理由です。
解説
この章句が説くこと
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『春秋左氏伝』哀公十四年 陳恒、簡公を弑す六月、左師巢をして之を伐たしむ。大夫を質として以て入らんと欲す。能はず。亦た曹に入りて質を取らんとす。魋曰く、「不可なり。既に君に事ふる能はず、又罪を民に得ば、將に之を若何せん」と。乃ち之を舍(ゆる)す。民遂に之に叛く。向魋衛に奔る。向巢來奔す。宋公之を止めしめて曰く、「寡人子と言有り。以て向氏の祀を絕つ可からず」と。辭して曰く、「臣の罪大なり。盡く桓氏を滅ぼすも可なり。若し先臣の故を以て、後有らしめば、君の惠なり。臣の若きは則ち以て入る可からず」と。司馬牛其の邑と珪とを致して、齊に適く。向魋衛の地に出づ。公文氏之を攻め、夏后氏の璜を求む。之に他の玉を與へて、齊に奔る。陳成子次卿と為さしむ。司馬牛又其の邑を致して、吳に適く。吳人之を惡みて反る。趙簡子之を召き、陳成子も亦た之を召く。魯の郭門の外に卒す。阬氏諸を丘輿に葬る。甲午、齊の陳恆其の君壬を舒州に弒す。孔丘三日齊(ものいみ)して、齊を伐たんことを請ふこと三たび。公曰く、「魯の齊の為に弱めらるること久し。子の之を伐つ、將に之を若何せん」と。對へて曰く、「陳恆其の君を弒す。民の與せざる者半ばなり。魯の眾を以て、齊の半ばに加へば、克つ可きなり」と。公曰く、「子季孫に告げよ」と。孔子辭す。退きて人に告げて曰く、「吾大夫の後に從ふを以てなり。故に敢へて言はずんばあらず」と。初め孟孺子洩將に馬を成に圉(か)はんとす。成の宰公孫宿受けずして曰く、「孟孫成の病なるが為に、焉に馬を圉はず」と。孺子怒り、成を襲ふ。從者入るを得ず。乃ち反る。成の有司使ひす。孺子之を鞭うつ。秋八月辛丑、孟懿子卒す。成人喪に奔る。內(い)れず。袒免して衢に哭し、共を聽かんとす。許さず。懼れて歸らず。
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史記 周本紀是に於て武王遍く諸侯に告げて曰く、「殷重罪有り、以て畢く伐たざる可からず」と。乃ち文王に遵ひ、遂に戎車三百乗、虎賁三千人、甲士四万五千人を率ゐて、以て東のかた紂を伐つ。十一年十二月戊午、師畢く盟津を渡り、諸侯咸会す。曰く、「孳孳として怠ること無かれ」と。武王乃ち太誓を作り、衆庶に告ぐ。「今殷王紂乃ち其の婦人の言を用ゐ、自ら天に絶ち、其の三正を毀壊し、其の王父母弟を離逖し、乃ち其の先祖の楽を断棄し、乃ち淫声を為り、用て正声を変乱し、婦人を怡説せしむ。故に今予発維れ共に天罰を行ふ。勉めよや夫子、再びす可からず、三たびす可からず」と。二月甲子の昧爽、武王朝に商の郊の牧野に至り、乃ち誓ふ。武王左に黄鉞を杖き、右に白旄を秉りて、以て麾く。曰く、「遠きかな西土の人」と。武王曰く、「嗟、我が有国の冢君、司徒・司馬・司空、亜旅・師氏、千夫長・百夫長、及び庸・蜀・羌・髳・微・纑・彭・濮の人、爾の戈を称げ、爾の干を比べ、爾の矛を立てよ。予其れ誓はん」と。王曰く、「古人言へる有り、『牝雞は晨する無し。牝雞の晨するは、惟れ家の索くるなり』と。今殷王紂は維れ婦人の言を是れ用ゐ、自ら其の先祖の肆祀を棄てて答へず、昏くして其の家国を棄て、其の王父母弟を遺てて用ゐず、乃ち維れ四方の多罪の逋逃を、是れ崇び是れ長とし、是れ信じ是れ使ひ、百姓に暴虐し、以て商国に姦軌せしむ。今予発維れ共に天の罰を行ふ。今日の事は、六歩七歩を過ぎずして、乃ち止まりて斉へよ。夫子勉めよや。四伐五伐六伐七伐を過ぎずして、乃ち止まりて斉へよ。勉めよや夫子。尚はくは桓桓として、虎の如く羆の如く、豺の如く離の如く、商の郊に于いて、奔るを御ぐことなく、以て西土に役せしめよ。勉めよや夫子。爾勉めざる所あらば、其れ爾の身に于いて戮有らん」と。
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『驢鞍橋』卷上壬辰霜月十一日の晩、去る寺に到る次で、大衆に対して曰く、当寺の大衆一様に志出来、目出度事也。次第に大事も起るべし。兎角此中から起るべし。是れ仏法繁昌の基也。則ち示曰、仏法の至極したる処を大義と云ふ也。義無くして修行成るべからす。今人間に生を得、殊に仏弟子と為りながら、餓鬼畜生の心にて居る事無念なりと思ひ定め、血の涙を流し、跳り上つて仏意を修せで不叶と、自ら眼をすゑ拳を握り、咦と牙を咬み給ふ。
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史記 楚世家九年、若敖氏に相たり。人或いは之を王に讒す。誅せられんことを恐れ、反って王を攻む。王撃ちて若敖氏の族を滅ぼす。十三年、舒を滅ぼす。十六年、陳を伐ち、夏徴舒を殺す。徴舒其の君を弑す。故に之を誅するなり。已に陳を破り、即ち之を県とす。群臣皆賀す。申叔時斉に使ひして来たり、賀せず。王問ふ。対へて曰く、「鄙語に曰く、牛を牽きて人の田を徑(わた)れば、田主其の牛を取る、と。徑る者は則ち直からず。之が牛を取るは亦た甚だしからずや。且つ王陳の乱を以て諸侯を率ゐて之を伐つ。義を以て之を伐ちて其の県を貪る。亦た何を以て復た天下に令せん」と。荘王乃ち陳の後を復国す。十七年春、楚の荘王鄭を囲み、三月にして之に克つ。皇門より入る。鄭伯肉袒し羊を牽きて以て逆へて曰く、「孤天ならず、君に事ふること能はず。君用て怒りを懐き、以て敝邑に及ぶ。孤の罪なり。敢て惟だ命を是れ聴かざらんや。之を南海に賓(しりぞ)くるも、若しくは臣妾を以て諸侯に賜ふも、亦た惟だ命を是れ聴かん。若し君厲・宣・桓・武を忘れず、其の社稷を絶たず、改めて君に事へしめば、孤の願ひなり。敢て望む所に非ざるなり。敢て腹心を布く」と。楚の群臣曰く、「王許すこと勿かれ」と。荘王曰く、「其の君能く人に下る。必ず能く其の民を信用せん。庸ぞ絶つべけんや」と。荘王自ら旗を手にし、左右に軍を麾(さしまね)き、兵を引きて去ること三十里にして舎り、遂に之に平らぐことを許す。潘尪入りて盟ひ、子良出でて質たり。夏六月、晋鄭を救ひ、楚と戦ふ。大いに晋の師を河上に敗り、遂に衡雍に至りて帰る。二十年、宋を囲む。楚の使ひを殺せしを以てなり。宋を囲むこと五月、城中食尽き、子を易へて食らひ、骨を析きて炊ぐ。宋の華元出でて告ぐるに情を以てす。荘王曰く、「君子なるかな」と。遂に兵を罷めて去る。二十三年、荘王卒し、子の共王審立つ。共王の十六年、晋鄭を伐つ。鄭急を告ぐ。共王鄭を救ふ。晋の兵と鄢陵に戦ふ。晋楚を敗り、共王の目に射中つ。共王将軍子反を召す。
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『甲陽軍鑑』品第十二子細は未の年八月より上野平井へ来りて、関東八州へ触状をまはし申し含めらるゝは、旣に関東の公方持氏公天運尽き、永享十二庚申に都の公方より誅罰し給ひ、御子の賢王丸殿·春王丸殿·泰王丸殿此の三人の若君迄ころしまいらせ候を、氏康取り立てらるゝこと非義の至りなり、都より近衛殿を申し請け公方に取り立てまいらせ、上杉管領を仕すへ申さんため、御守りに長尾謙信景虎是れ迄参りたり、氏康は北条なり、北条は平家なり、各これにしたがひ給ふこと勿体なしと申すに付き、関八州尤もと同じける故、氏康また元の伊豆·相摸はかりに成るに付き、蓮池迄をしこまるゝ、
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史記 呂太后本紀朱虚侯中より大臣と応を為さんと欲す。斉王兵を発せんと欲す、其の相聴かず。八月丙午、斉王人をして相を誅せしめんと欲す、相召平乃ち反し、兵を挙げて王を囲まんと欲す、王因りて其の相を殺し、遂に兵を発して東し、詐りて瑯邪王の兵を奪ひ、并せて之に将として西す。語は斉王の語中に在り。斉王乃ち諸侯王に書を遺りて曰く、「高帝天下を平定し、諸子弟を王とし、悼恵王斉に王たり。悼恵王薨ず、孝恵帝留侯良をして臣を立てて斉王と為さしむ。孝恵崩じ、高后事を用ゐ、春秋高く、諸呂に聴き、擅に帝を廃して更に立て、又比(しき)りに三趙王を殺し、梁・趙・燕を滅ぼして以て諸呂を王とし、斉を分かちて四と為す。忠臣進諫するも、上惑乱して聴かず。今高后崩じ、而して帝春秋富み、未だ天下を治むる能はず、固より大臣諸侯を恃む。而るに諸呂又擅に自ら官を尊くし、兵を聚めて威を厳しくし、列侯忠臣を劫かし、制を矯めて以て天下に令す、宗廟の危ふき所以なり。寡人兵を率ゐて入りて当に王たるべからざる者を誅せん。」と。漢之を聞き、相国呂産等乃ち潁陰侯灌嬰を遣はして兵を将ゐて之を撃たしむ。灌嬰滎陽に至り、乃ち謀りて曰く、「諸呂兵を関中に権(にぎ)り、劉氏を危ふくして自立せんと欲す。今我斉を破りて還り報ぜば、此れ呂氏の資を益すなり。」と。乃ち留まりて滎陽に屯し、使をして斉王及び諸侯に諭さしめ、与に連和し、以て呂氏の変を待ちて、共に之を誅せんとす。斉王之を聞き、乃ち兵を還して西界に約を待つ。呂禄・呂産乱を関中に発せんと欲す、内には絳侯・朱虚等を憚り、外には斉・楚の兵を畏れ、又灌嬰の之に畔(そむ)かんことを恐れ、灌嬰の兵の斉と合するを待ちて発せんと欲し、猶予して未だ決せず。是の時に当たりて、済川王太・淮陽王武・常山王朝は名づけて少帝の弟と為し、及び魯元王は呂后の外孫にして、皆年少くして未だ国に之かず、長安に居る。趙王禄・梁王産各々兵を将ゐて南北軍に居る、皆呂氏の人なり。
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