福沢諭吉小品集 / 日本男子論・第26段
然り而して日本国中その責に任ずる者は誰ぞや、内行を慎まざる軽薄男子あるのみ。この一点より考うれば、外国人の見る目如何などとて、その来訪のときに家内の体裁を取り繕い、あるいは外にして都鄙の外観を飾り、または交際の法に華美を装うが如き、誠に無益の沙汰にして、軽侮を来す所以の大本をば擱き、徒に末に走りて労するものというべきのみ。これを喩えば、大廈高楼の盛宴に山海の珍味を列ね、酒池肉林の豪、糸竹管絃の興、善尽し美尽して客を饗応するその中に、主人は独り袒裼裸体なるが如し。客たる者は礼の厚きを以てこの家に重きを置くべきや。饗礼は鄭重にして謝すべきに似たれども、何分にも主人の身こそ気の毒なる有様なれば、賓主の礼儀において陽に発言せざるも、陰に冷笑して軽侮の念を生ずることならん。労して功なく費やして益なきものというべし。されば今我が日本国が文明の諸外国に対して、その交際の公私に論なく、ややもすれば意の如くならざるは、原因のある所、一にして足らずといえども、我が男子が徳義上に軽侮を蒙るの一事は、その原因中の大箇条なるが故に、いやしくもこれに心付きたる者は、片時も猶予せずしてその過ちを改めざるべからず。今の世界に居て人生誰か自国を愛せざる者あらんや。国のためとあれば荊に坐し胆を嘗むるも憚らざるは人情の常なり。内行を慎むが如き、非常の辛苦にあらず。在昔はこれを戒むるの趣意、単にその人の一身にありしことなれども、今は則ち一国の栄辱に関して、更に重大の事とはなりたり。身を思い国を思う者は、深く自ら省みる所なかるべからざるなり。
書き下し
然り而して日本国中その責に任ずる者は誰ぞや、内行を慎まざる軽薄男子あるのみ。この一点より考うれば、外国人の見る目如何などとて、その来訪のときに家内の体裁を取り繕い、あるいは外にして都鄙の外観を飾り、または交際の法に華美を装うが如き、誠に無益の沙汰にして、軽侮を来す所以の大本をば擱き、徒に末に走りて労するものというべきのみ。これを喩えば、大廈高楼の盛宴に山海の珍味を列ね、酒池肉林の豪、糸竹管絃の興、善尽し美尽して客を饗応するその中に、主人は独り袒裼裸体なるが如し。客たる者は礼の厚きを以てこの家に重きを置くべきや。饗礼は鄭重にして謝すべきに似たれども、何分にも主人の身こそ気の毒なる有様なれば、賓主の礼儀において陽に発言せざるも、陰に冷笑して軽侮の念を生ずることならん。労して功なく費やして益なきものというべし。されば今我が日本国が文明の諸外国に対して、その交際の公私に論なく、ややもすれば意の如くならざるは、原因のある所、一にして足らずといえども、我が男子が徳義上に軽侮を蒙るの一事は、その原因中の大箇条なるが故に、いやしくもこれに心付きたる者は、片時も猶予せずしてその過ちを改めざるべからず。今の世界に居て人生誰か自国を愛せざる者あらんや。国のためとあれば荊に坐し胆を嘗むるも憚らざるは人情の常なり。内行を慎むが如き、非常の辛苦にあらず。在昔はこれを戒むるの趣意、単にその人の一身にありしことなれども、今は則ち一国の栄辱に関して、更に重大の事とはなりたり。身を思い国を思う者は、深く自ら省みる所なかるべからざるなり。
現代語訳
そうだとすれば、日本国中でその責任を負う者は誰でしょうか。内での行いを慎まない軽薄な男子がいるだけです。この一点から考えると、外国人の見る目はどうかなどと言って、その来訪のときに家のなかの体裁を取り繕い、あるいは外に向けて都市や田舎の外観を飾り、または交際の方法に華美を装うのは、まったく無益な話で、軽侮を招く大本をそのままにして、いたずらに末端に走って労するだけのことというべきです。これを例えれば、大きな屋敷や高楼での盛大な宴会で、山海の珍味を並べ、酒の池や肉の林といった豪勢さ、管弦の楽しみまで、善美を尽くして客をもてなしているのに、主人だけが裸になっているようなものです。客はその礼の厚さによって、この家に敬意を払うでしょうか。もてなしは丁重で感謝すべきように見えますが、何分にも主人の身こそ気の毒な有様なので、客と主人の礼儀として口には出さなくても、陰では冷笑して軽蔑の念を生じるでしょう。労しても功がなく、費やしても益がないものというべきです。ですから、今、我が日本国が文明の諸外国に対して、その交際の公私を問わず、ともすれば思うようにいかないのは、原因が一つに限らないにしても、我が男子が道徳上侮りを受けているという一事は、その原因のなかの大きな項目なので、少しでもこれに気づいた者は、片時も猶予せずその過ちを改めなければなりません。今の世界に生きて、誰が自国を愛さないでしょうか。国のためとあれば、茨の上に座り、胆をなめる苦労も辞さないのが人情の常です。家庭内での行いを慎むことは、非常な辛苦ではありません。昔はこれを戒める趣旨は、単にその人の一身にありましたが、今では一国の栄誉と恥辱にかかわり、さらに重大なことになりました。我が身を思い、国を思う者は、深く自ら省みるところがなければなりません。
解説
この章句が説くこと
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第30段日本男子の内行不取締は、その実において既に厭うべきもの少なからざるなおその上に、古来習俗の久しき、醜を醜とせずして愧ずるを知らざるのみならず、甚だしきに至りて、その狼藉無状の挙動を目して磊落と称し、赤面の中に自ずから得意の意味を含んで、世間の人もこれを許して問わず、上流社会にてはその人を風流才子と名づけて、人物に一段の趣を添えたるが如くに見え、下等の民間においても、色は男の働きなどいう通語を生じて、かつて憚る所なきは、その由来、けだし一朝一夕のことにあらず。我が王朝文弱の時代にその風を成し、玉の盃底なきが如しなどの語は、今に至るまで人口に膾炙する所にして、爾後武家の世にあっては、戸外兵馬の事に忙わしくして内を修むるに遑なく、下って徳川の治世に儒教大いに興りたれども、支那の流儀にして内行の正邪は深く咎めざるのみならず、文化文政の頃に至りては治世の極度、儒もまた浮文に流れて洒落放胆を事とし、殊に三都の如きはその最も甚だしきものにして、儒者文人の叢淵即ち不品行家の巣窟とも名づくべき悪風を成し、遂に徳川を終わりて明治の新世界に変じたれども、いわゆる洒落放胆の気風は今なお存して止まず、かの洋学者流の如き、その学ぶ所の事柄は全く儒林の外にして、仮令え西洋の宗教道徳門に入らざるも、その国人に接し、その言を聴き、その書を読み、その風俗を視察するときは、事の内実はともかくも、その表面のみにても、これを日本の事態に比して大いに異なる所あるを発明し、大いに悟りて自ら新たにし、儒流洒落の不品行を脱却して紳士の正に帰すべきはずなるに、言行一切西洋流なるにもかかわらず、内行の一点に至りては純然たる旧日本人の本色を失わざるもの多し。けだし社会一般の習俗に制せられて、醜を醜とするの明を失うたるものにして、あるいはこれを評し有心故造の罪にあらず、無心に悪を犯すの愚というも可ならん。この点より見れば悪むべきにあらず、むしろ憐れむべきのみ。
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第32段数百年来の習俗なれば、これを酷に咎むるは無益の談に似たれども、今の日本は、これ日本国中の日本にあらずして、世界万国に対する文明世界中の日本なれば、いやしくも日本の栄誉を重んずる士人においては、少しく心する所のものなかるべからず。試みに一例を挙げて士人に問わん。君らがいわゆる盛会に例の如く妓を聘し酒を飲み得々談笑するときは勿論、時としては親戚・朋友・男女団欒たる内宴の席においても、一座少しく興に入るとき、盃盤を狼藉ならしむる者は、君らにあらずして誰ぞや。その狼藉はなお可なり、酒席の一興、かえって面白しとして恕すべしといえども、座中ややもすれば三々五々の群を成して、その談、花街柳巷の事に及ぶが如きは聞くに堪えず。そもそもその花柳の談を喋々喃々するは、何を談じ何を笑い、何を問い何を答うるや。別品といい色男といい、愉快といい失策というが如き、様々の怪語醜言を交え用いて、いかなる談話を成すや。酔狂喧嘩の殺風景なる、固より厭うべしといえども、花柳談の陰醜なるは酔狂の比にあらざるなり。もしも外国人の中に、日本語に通ずること最も巧みにして、談話の意味は勿論、その語気の微妙なる部分までも穎敏に解し得る者あるか、または日本人にして外国語を能くし、いかなる日本語にてもその真面目を外国語に写して毫も誤らざる者ありて、君らの談話を一より十に至るまで遺る所なく通弁しまた翻訳して、西洋文明国の中人以上、紳士貴女をしてこれを聴かしめ、またその訳文を読ましめたらば、かの士女は果たして如何の評を下すべきや。一切の事情をば問わずして、ただ喫驚の余りに、日本の紳士は下郎なりと放言し去ることならん。君らは斯る評論を被りて、果たして愧ずる所なきか。
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第24段然るに、我輩が年来の所見を以ていかように判断せんとするも説を得ざるその次第は、我が国人が斯くまでに力を尽して外交を重んじ、ただに事実に国の富強文明を謀るのみならず、外面の体裁虚飾に至るまでも、専ら西洋流の文明開化に倣わんとして怠ることなく、これを欣慕して二念なき精神にてありながら、独りその内行の問題に至りては、全く開明の主義を度外に放棄して、純然たる亜細亜洲の旧慣に従い、居然自得して眼中また西洋なきが如くなるの一事なり。元来西洋の人は我が日本の事情に暗くして、ややもすれば不都合千万なる謬見を抱く者少なからず。就中彼らは耶蘇教の人なるが故に、己れの宗旨に同じからざる者を見れば、千百の吟味詮索は差置き、一概にこれを外教人と称して、何となく嫌悪の情を含み、これがために双方の交情を妨ぐること多きは、誠に残念なる次第にして、我輩は常にその弁明に怠らず。
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第14段主人の内行修まらざるがために、一家内に様々の風波を起こして家人の情を痛ましめ、以てその私徳の発達を妨げ、不孝の子を生じ、不悌不友の兄弟姉妹を作るは、固より免るべからざるの結果にして、怪しむに足らざる所なれども、ここに最も憐れむべきは、家に男尊女卑の悪習を醸して、子孫に圧制卑屈の根性を成さしむるの一事なり。男子の不品行は既に一般の習慣となりて、人の怪しむ者なしというといえども、人類天性の本心において、自ら犯すその不品行を人間の美事として誇る者はあるべからず。否百人は百人、千人は千人、皆これを心の底に愧じざるものなし。内心にこれを愧じて外面に傲慢なる色を装い、磊落なるが如く無頓着なるが如くにして、強いて自ら慰むるのみなれども、俗にいわゆる疵持つ身にして、常に悠々として安心するを得ず。その家人と共に一家に眠食して団欒たる最中にも、時として禁句に触れらるることあれば、その時の不愉快は譬えんに物なし。無心の小児が父を共にして母を異にするの理由を問い、隣家には父母二人に限りて吾が家に一父二、三母あるは如何などと、不審を起こして詰問に及ぶときは、さすが鉄面皮の乃父も答うるに辞なく、ただ黙して冷笑するか顧みて他を言うのほかなし。即ちその身の弱点にして、小児の一言、寸鉄腸を断つものなり。既にこの弱点あれば常にこれを防禦するの工風なかるべからず。その策如何というに、朝夕主人の言行を厳重正格にして、家人を視ること他人の如くし、妻妾児孫をして己れに事うること奴隷の主君におけるが如くならしめ、あたかも一家の至尊には近づくべからず、その忌諱には触るべからず、俗にいえば殿様旦那様の御機嫌は損ずべからずとして、上下尊卑の分を明らかにし、例の内行禁句の一事に至りては、言の端にもこれをいわずして、家内、目を以てするの家風を養成すること最も必要にして、この一策は取りも直さず内行防禦の胸壁とも称すべきものなり。
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第36段今その然る所以の理由を述べんに、婦人の地位の低きとは、男子に対して低きことなれば、これを引上げて高き処に置かんとするに当たり、第一着に心頭に浮ぶものは、とにかくに、今の婦人をして今の男子の如くならしめんとするの思想なるべし。然り而してその男子の如くなるや、知識気力の深浅強弱如何の辺に止まり、専ら精神を練るの教えを主として、当局の婦人においても、その範囲を脱せざれば甚だ佳しといえども、文明の事は有形の門より入るもの多きの例なれば、婦人の教育についてもその形を先にし、先ず衣裳を改めて文明の風を装い、交際を開いて文明の盛事を学び、只管外国婦人の所業に傚うて活溌を気取り、外面の虚飾を張りてかえって裏面の実を忘れ、活溌は漸く不作法に変じ、虚飾は遂に家計を寒からしめ、未だ西洋文明の精神を得ずして、早く既に自家遺伝の美徳美風を失うことなきを期すべからず。これらの弊害は事物の新旧交代の際に多少免るべからざるものとしてこれを忍ぶも、ここに忍ぶべからざるは、その弊害の極度に至り、今の婦人が男子の挙動に傚わんとして、今の日本男子の品行を学ぶが如きあらばこれを如何すべきや。日本国人の品行美ならずといえども、なお今日までにこれを維持してその醜を蔽い、時として潔清義烈の光を放って我が社会の栄誉を地に落つることなからしめたるものは何ぞや。ただ良家の婦人女子あるのみ。現に今日にあっても私徳品行の一点に至り、我が日本の婦人と西洋諸国の婦人と相対するときは、我に愧ずる所なきのみならず、往々上乗に位して、かの婦人の能くせざる所を能くし、その堪えざる所に堪え、彼をして慚死せしむるものさえ少なからず。内外人の共に許す所にして、即ち我が大日本の国光として誇るべきものなり。もしも年来日本男子をしてその醜行を恣にせしめて、一方に良家婦徳の凜然たるものなからしめなば、我が社会はほとんど暗黒世界たるべきはずなるに、幸いにしてその然らざるは、これを良婦人の賜といわざるを得ず。
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第23段外国と交際を開きて独立国の体面を張らんとするには、虚実両様の尽力なかるべからず。殖産工商の事を勉めて富国の資を大にし、学問教育の道を盛んにして人文の光を明らかにし、海陸軍の力を足して護国の備えを厚うするが如き、実際直接の要用なれども、内外人民の交際は甚だ繁忙多端にして、外国人が我が日本国の事情を詳らかにせんとするは、容易なることにあらざるが故に、彼らをして我が真面目を知らしめんとするには、事の細大に論なく、仮令え無用に属する外見の虚飾にても、先ずその形を示して我を知るの道を開くこと甚だ緊要なりとす。即ち我が国衣食住の有様は云々にして習俗宗教は斯の如しなどと、これを示しこれを語りて、時としてはことさらにその外面を装うて体裁を張るが如き、これなり。例えば今日の実際において、吾人の家に外国人の来るあれば、先ずこれを珍客として様々に待遇の備えを設け、とにかくに見苦しからぬようにと心配するは人情の常なり。また、これを大にして都鄙の道路橋梁、公共の建築等に、時としては実用のほかに外見を飾るものなきにあらず。あるいは近来東京などにて交際のいよいよ盛んにして、遂に豪奢分外の譏りを得るまでに至りしも、幾分か外国人に対して体裁云々の意味を含むことならん。一概にこれを評すれば無益の虚飾なるに似たれども、他人をして我が真実を知らしむるは甚だ易からざるが故に、先ず虚より導きて実に入らしむる方便なりといえば、強ち咎むべきにもあらず。その虚実、要不要の論はしばらく擱き、我が日本国人が外国交際を重んじてこれを等閑に附せず、我が力のあらん限りを尽して、以て自国の体面を張らんとするの精神は誠に明白にして、その愛国の衷情、実際の事跡に現われたるものというべし。
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