福沢諭吉小品集 / 日本男子論・第28段
またあるいは説を作り、西洋文明の人と称する者にても、その男女の内行決して潔清なるにあらず、表面はともかくも、裏面に廻りて内部を視察すれば、醜に堪えざるもの多し、何ぞ必ずしも独り日本人を咎むるに足らんなどいう者なきにあらず。これは我が国の上流、殊に西洋家と称する一類の中に行わるる言なれども、全く無力の遁辞口実たるに過ぎず。そもそも人生の気力を平均すれば至って弱き者にして、ややもすれば艱難に敵して敗北すること少なからざるの常なり。然るに内行を潔清に維持して俯仰慚ずる所なからんとするは、気力乏しき人にとりて随分一難事とも称すべきものなるが故に、西洋の男女独り木石にあらずまた独り強者にあらず、俗にいう穴探しの筆法を以てその社会の陰処を摘発するにおいては、千百の醜行醜聞、枚挙に遑あらず。我輩は親しくその国人の言に聞きたることもあり、またその著書・新聞紙上に見たることもありて、誠に珍しからずといえども、然りといえども日本男子はこの西洋社会の醜行醜聞を見聞して如何の感をなすや。これを醜なりとするか、はた美なりとするか。我輩の聞かんと欲する所は、ただその醜美の判断如何の一点にあるのみ。
書き下し
またあるいは説を作り、西洋文明の人と称する者にても、その男女の内行決して潔清なるにあらず、表面はともかくも、裏面に廻りて内部を視察すれば、醜に堪えざるもの多し、何ぞ必ずしも独り日本人を咎むるに足らんなどいう者なきにあらず。これは我が国の上流、殊に西洋家と称する一類の中に行わるる言なれども、全く無力の遁辞口実たるに過ぎず。そもそも人生の気力を平均すれば至って弱き者にして、ややもすれば艱難に敵して敗北すること少なからざるの常なり。然るに内行を潔清に維持して俯仰慚ずる所なからんとするは、気力乏しき人にとりて随分一難事とも称すべきものなるが故に、西洋の男女独り木石にあらずまた独り強者にあらず、俗にいう穴探しの筆法を以てその社会の陰処を摘発するにおいては、千百の醜行醜聞、枚挙に遑あらず。我輩は親しくその国人の言に聞きたることもあり、またその著書・新聞紙上に見たることもありて、誠に珍しからずといえども、然りといえども日本男子はこの西洋社会の醜行醜聞を見聞して如何の感をなすや。これを醜なりとするか、はた美なりとするか。我輩の聞かんと欲する所は、ただその醜美の判断如何の一点にあるのみ。
現代語訳
またあるいは、こういう説を立てる者もいます。西洋文明の人といっても、その男女の内での行いは決して清らかではない。表面はともかく、裏に回って内部を観察すれば、醜くて見ていられないものが多い。どうして日本人だけを責める必要があるのか、などと言う者がいないわけではありません。これは我が国の上流、とくに西洋かぶれと称する連中のなかで行われている言い分ですが、まったく力のない逃げ口上にすぎません。そもそも人間の気力は平均すればきわめて弱いもので、ともすれば困難に出会って敗北することが少なくないのが常です。それなのに、家庭内での行いを清らかに保ち、天地に恥じるところがないようにしようとするのは、気力の乏しい人にとってはなかなかの難事といえるので、西洋の男女だけが木石でもなく、また強者でもないのですから、俗にいう「あら探し」の方法でその社会の陰の部分をあばけば、数えきれないほどの醜行や醜聞があることでしょう。私は自らその国の人の言葉を聞いたこともあり、またその著書や新聞紙上で見たこともあって、まったく珍しくないことは知っています。しかし、日本の男子は、この西洋社会の醜行・醜聞を見聞してどう感じるのでしょうか。これを醜いとするのか、それとも美しいとするのか。私が聞きたいのは、ただその美醜の判断がどうかという一点だけです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
福沢諭吉小品集・日本男子論・第29段日本男子鉄面皮なるも、その眼に映じて醜なるものは醜にして、美なるものは美なるべし。既に醜美の判断を得たり、然らば則ち何ぞその醜を去って美に就かざるや。本来醜美は自身の内に存するものにして、毫末も他に関係あるべからず。いやしくも我が一身の内に美ならんか、身外満目の醜美は以て我が美を軽重するに足らず。あるいはこれに反して我が身に一点の醜を包蔵せんか、満天下に無限の醜を放つものあるも、その醜は以て我が醜を浄むるに足らず、また恕するに足らず。されば文明なる西洋諸国の社会にもなお醜行の盛んなるを見聞したらば、幸いに取って以て自省の材料にこそ供すべけれ、いかに自儘なる説を作るも、他の悪事を見て自家の悪事を恕するの口実に用いんとするが如きは、我輩の断じて許さざる所なり。近く比喩を以てこれを示さんに、不品行によりて徳を害するも、虎列剌毒に触れて身を害するも、その害は同様なるべし。然るに今虎列剌の流行に際して我が保身の法を如何するや。天下の人皆病毒に感ず、流行病は天下の流行にして、西洋諸国また然りとのことなれば、もはや我が身も自ら顧みるに遑あらず、共にその毒に伝染して広く世界の人と病苦死生を与にすべしとて、自暴自棄する者あるべきや。我輩未だその人を見ざるのみならず、その流行のいよいよ盛んなるに従って自ら戒むるの法もいよいよ綿密にして、謹慎に謹慎を加うるは、世界古今人情の常なり。人生の身体とその精神と、いずれをも軽しとしまた重しとすべからざるはいうまでもなきことにして、今内行の不取締は、人倫の大本を破りて先ず精神を腐敗せしむるものなり。身体を犯すの病毒はこれを恐るること非常にして、精神を腐敗せしむるの不品行は、世間に同行者の多きがためにとて自らこれを犯して罪を免れんとす。無稽もまた甚だしというべし。故にかの西洋家流が欧米の著書・新聞紙など読みてその陰所の醜を探り、ややもすればこれを公言して、以て冥々の間に自家の醜を瞞着せんとするが如き工風を運らすも、到底我輩の筆鋒を遁るるに路なきものと知るべし。
-
福沢諭吉小品集・日本男子論・第33段西洋諸国の上流紳士学者の集会に談笑自在なるも、果たして君らの如き醜語を放って憚らざるものあるか、我輩の未だ知らざる所なり。けだし文明の社会にはかつて聞かざる所の醜語にてありながら、君らが常にこれを語りて憚る所なきは、日本の事は外人の知らざる所なりとして、強いて自ら安んずることならんなれども、前節にいえる如く、今日の日本は世界に対するの日本なり、いやしくも国を国として栄辱の所在を知るものは、君らの言行について不平なきを得ざるなり。また些細の事なれども手近く一例を示さんに、『時事新報』紙上に折々英語を記して訳文を添えたる西洋の落語また滑稽談の如きものは読者の知る所ならん。この文は西洋の新聞紙等より抜きたるものにして、必ずしもその記事の醜美を撰ぶにあらざれば、時々法外千万なる漫語放言もあれども、人生の内行に関するの醜談、即ち俗にいう下掛りのこととては、かつて一言もこれを見ず。その然る所以は、訳者が心を用いて特に避けたるにあらずして、原書中を求めて斯る醜談に見当たらざればなり。今仮に西洋の原書を離れて、これに易うるに日本流の落語滑稽を以てせんとして、その種類を集めたらばいかなるものを得べきや。談柄必ず肉体の区域に入りて、見苦しく聞き苦しきものは十中の七、八なるべし。畢竟我が人文のなお未だ鄙陋を免れざるの証として見るべきものなり。然り而してこの日本流の落語なりまた滑稽談なり、特に下等の民間に行わるる鄙陋なればなお恕すべしといえども、堂々たる上流の士君子と称する輩が、自ら鄙陋を犯してまた鄙陋を語り、醜臭を世界に放つが如きは、国民の標準たる士君子の徳義上において、遁るべからざるの罪というべし。
-
福沢諭吉小品集・日本男子論・第17段されば私徳を大切にするその中についても、両性の交際を厳にして徹頭徹尾潔清の節を守り、俯仰天地に愧ずることなからんとするには、人生甚だ長くしてその間に千種万様の事情あるにもかかわらず、自ら血気を抑えて時としては人の顔色をも犯し、世を挙って皆酔うの最中、独り自ら醒め、独行勇進して左右を顧みざることなれば、随分容易なる脩業にあらず。即ち木石ならざる人生の難業ともいうべきものにして、既にこの業を脩めて顧みて凡俗世界を見れば、腐敗の空気充満して醜に堪えず。無知無徳の下等社会はともかくも、上流の富貴または学者と称する部分においても、言うに忍びざるもの多し。人間の大事、社会の体面のためと思えばこそ、敢えてこれを明言する者なけれども、その実は万物の霊たるを忘れて単に獣慾の奴隷たる者さえなきにあらず。 いやしくも潔清無垢の位に居り、この腐敗したる醜世界を臨み見て、自ら自身を区別するの心を生ぜざるものあらんや。僅かに資産の厚薄、才学の深浅を以てなおかつ他と伍をなすを屑しとせず。いわんや人倫の大本、百徳の源たる男女の関係につき、潔不潔を殊にするにおいてをや。他の醜物を眼下に視ることなからんと欲するも得べからず。即ち我が精神を自信自重の高処に進めたるものにして、精神一度び定まるときは、その働きはただ人倫の区域のみに止まらず、発しては社会交際の運動となり、言語応対の風采となり、浩然の気外に溢れて、身外の万物恐るるに足るものなし。談笑洒落・進退自由にして縦横憚る所なきが如くなれども、その間に一点の汚痕を留めず、余裕綽々然として人の情を痛ましむることなし。けだし潔清無垢の極はかえって無量の寛大となり、浮世の百汚穢を容れて妨げなきものならんのみ。これを、かの世間の醜行男子が、社会の陰処に独り醜を恣にするにあらざれば同類一場の交際を開き、豪遊と名づけ愉快と称し、沈湎冒色勝手次第に飛揚して得々たるも、不幸にして君子の耳目に触るるときは、疵持つ身の忽ち萎縮して顔色を失い、人の後に瞠若として卑屈慚愧の状を呈すること、日光に当てられたる土鼠の如くなるものに比すれば、また同日の論にあらざるなり。
-
福沢諭吉小品集・日本男子論・第26段然り而して日本国中その責に任ずる者は誰ぞや、内行を慎まざる軽薄男子あるのみ。この一点より考うれば、外国人の見る目如何などとて、その来訪のときに家内の体裁を取り繕い、あるいは外にして都鄙の外観を飾り、または交際の法に華美を装うが如き、誠に無益の沙汰にして、軽侮を来す所以の大本をば擱き、徒に末に走りて労するものというべきのみ。これを喩えば、大廈高楼の盛宴に山海の珍味を列ね、酒池肉林の豪、糸竹管絃の興、善尽し美尽して客を饗応するその中に、主人は独り袒裼裸体なるが如し。客たる者は礼の厚きを以てこの家に重きを置くべきや。饗礼は鄭重にして謝すべきに似たれども、何分にも主人の身こそ気の毒なる有様なれば、賓主の礼儀において陽に発言せざるも、陰に冷笑して軽侮の念を生ずることならん。労して功なく費やして益なきものというべし。されば今我が日本国が文明の諸外国に対して、その交際の公私に論なく、ややもすれば意の如くならざるは、原因のある所、一にして足らずといえども、我が男子が徳義上に軽侮を蒙るの一事は、その原因中の大箇条なるが故に、いやしくもこれに心付きたる者は、片時も猶予せずしてその過ちを改めざるべからず。今の世界に居て人生誰か自国を愛せざる者あらんや。国のためとあれば荊に坐し胆を嘗むるも憚らざるは人情の常なり。内行を慎むが如き、非常の辛苦にあらず。在昔はこれを戒むるの趣意、単にその人の一身にありしことなれども、今は則ち一国の栄辱に関して、更に重大の事とはなりたり。身を思い国を思う者は、深く自ら省みる所なかるべからざるなり。
-
福沢諭吉小品集・日本男子論・第24段然るに、我輩が年来の所見を以ていかように判断せんとするも説を得ざるその次第は、我が国人が斯くまでに力を尽して外交を重んじ、ただに事実に国の富強文明を謀るのみならず、外面の体裁虚飾に至るまでも、専ら西洋流の文明開化に倣わんとして怠ることなく、これを欣慕して二念なき精神にてありながら、独りその内行の問題に至りては、全く開明の主義を度外に放棄して、純然たる亜細亜洲の旧慣に従い、居然自得して眼中また西洋なきが如くなるの一事なり。元来西洋の人は我が日本の事情に暗くして、ややもすれば不都合千万なる謬見を抱く者少なからず。就中彼らは耶蘇教の人なるが故に、己れの宗旨に同じからざる者を見れば、千百の吟味詮索は差置き、一概にこれを外教人と称して、何となく嫌悪の情を含み、これがために双方の交情を妨ぐること多きは、誠に残念なる次第にして、我輩は常にその弁明に怠らず。
-
福沢諭吉小品集・日本男子論・第30段日本男子の内行不取締は、その実において既に厭うべきもの少なからざるなおその上に、古来習俗の久しき、醜を醜とせずして愧ずるを知らざるのみならず、甚だしきに至りて、その狼藉無状の挙動を目して磊落と称し、赤面の中に自ずから得意の意味を含んで、世間の人もこれを許して問わず、上流社会にてはその人を風流才子と名づけて、人物に一段の趣を添えたるが如くに見え、下等の民間においても、色は男の働きなどいう通語を生じて、かつて憚る所なきは、その由来、けだし一朝一夕のことにあらず。我が王朝文弱の時代にその風を成し、玉の盃底なきが如しなどの語は、今に至るまで人口に膾炙する所にして、爾後武家の世にあっては、戸外兵馬の事に忙わしくして内を修むるに遑なく、下って徳川の治世に儒教大いに興りたれども、支那の流儀にして内行の正邪は深く咎めざるのみならず、文化文政の頃に至りては治世の極度、儒もまた浮文に流れて洒落放胆を事とし、殊に三都の如きはその最も甚だしきものにして、儒者文人の叢淵即ち不品行家の巣窟とも名づくべき悪風を成し、遂に徳川を終わりて明治の新世界に変じたれども、いわゆる洒落放胆の気風は今なお存して止まず、かの洋学者流の如き、その学ぶ所の事柄は全く儒林の外にして、仮令え西洋の宗教道徳門に入らざるも、その国人に接し、その言を聴き、その書を読み、その風俗を視察するときは、事の内実はともかくも、その表面のみにても、これを日本の事態に比して大いに異なる所あるを発明し、大いに悟りて自ら新たにし、儒流洒落の不品行を脱却して紳士の正に帰すべきはずなるに、言行一切西洋流なるにもかかわらず、内行の一点に至りては純然たる旧日本人の本色を失わざるもの多し。けだし社会一般の習俗に制せられて、醜を醜とするの明を失うたるものにして、あるいはこれを評し有心故造の罪にあらず、無心に悪を犯すの愚というも可ならん。この点より見れば悪むべきにあらず、むしろ憐れむべきのみ。
人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る