導師導古典を学びたいすべての人に 法人向けワークシート法人向けワークシート

福沢諭吉小品集 / 旧藩情・第19段

彼の御広間の敷居の内外を争い、御目付部屋の御記録に思を焦し、然として怒り莞爾として笑いしその有様を回想すれば、正にこれ火打箱の隅に屈伸して一場の夢を見たるのみ。しかのみならず今日に至ては、その御広間もすでに湯屋の薪となり、御記録も疾く紙屑屋の手に渡りたるその後において、なお何物に恋々すべきや。また今の旧下士族が旧上士族に向い、旧時の門閥虚威を咎めてその停滞を今日に洩らさんとするは、空屋の門に立て案内を乞うがごとく、蛇の脱殻を見て捕えんとする者のごとし。いたずらに自から愚を表して他の嘲を買うに過ぎず。すべて今の士族はその身分を落したりとて悲しむ者多けれども、落すにも揚るにも結局物の本位を定めざるの論なり。平民と同格なるはすなわち下落ならんといえども、旧主人なる華族と同席して平伏せざるは昇進なり。下落を嫌わば平民に遠ざかるべし、これを止むる者なし。昇進を願わば華族に交るべし、またこれを妨る者なし。これに遠ざかるもこれに交るも、果してその身に何の軽重を致すべきや。これを是れ知らずして自から心を悩ますは、誤謬の甚しき者というべし。故に有形なる身分の下落昇進に心を関せずして、無形なる士族固有の品行を維持せんこと、余輩の懇々企望するところなり。ただこの際において心事の機を転ずること緊要にして、そのこれを転ずるの器械は、特に学校をもって有力なるものとするが故に、ことさらに藩地徳望の士君子に求め、その共に尽力して学校を盛にせんことを願うなり。

書き下し

彼の御広間の敷居の内外を争い、御目付部屋の御記録に思を焦し、然として怒り莞爾として笑いしその有様を回想すれば、正にこれ火打箱の隅に屈伸して一場の夢を見たるのみ。しかのみならず今日に至ては、その御広間もすでに湯屋の薪となり、御記録も疾く紙屑屋の手に渡りたるその後において、なお何物に恋々すべきや。また今の旧下士族が旧上士族に向い、旧時の門閥虚威を咎めてその停滞を今日に洩らさんとするは、空屋の門に立て案内を乞うがごとく、蛇の脱殻を見て捕えんとする者のごとし。いたずらに自から愚を表して他の嘲を買うに過ぎず。すべて今の士族はその身分を落したりとて悲しむ者多けれども、落すにも揚るにも結局物の本位を定めざるの論なり。平民と同格なるはすなわち下落ならんといえども、旧主人なる華族と同席して平伏せざるは昇進なり。下落を嫌わば平民に遠ざかるべし、これを止むる者なし。昇進を願わば華族に交るべし、またこれを妨る者なし。これに遠ざかるもこれに交るも、果してその身に何の軽重を致すべきや。これを是れ知らずして自から心を悩ますは、誤謬の甚しき者というべし。故に有形なる身分の下落昇進に心を関せずして、無形なる士族固有の品行を維持せんこと、余輩の懇々企望するところなり。ただこの際において心事の機を転ずること緊要にして、そのこれを転ずるの器械は、特に学校をもって有力なるものとするが故に、ことさらに藩地徳望の士君子に求め、その共に尽力して学校を盛にせんことを願うなり。

現代語訳

あの御広間の敷居の内か外かを争い、御目付部屋の御記録に思いを焦がし、怒ったり、にこにこ笑ったりしたあの様子を思い返せば、まさに火打箱の隅で身を曲げたり伸ばしたりして、一場の夢を見たにすぎません。それだけでなく、今日に至っては、その御広間もすでに銭湯の薪となり、御記録も早々に紙屑屋の手に渡ったその後で、なお何に未練を持つ必要があるでしょうか。また、今の旧下士族が旧上士族に向かって、昔の門閥の虚威をとがめて、その積もる恨みを今日に晴らそうとするのは、人のいない空き家の門に立って案内を請うようなもので、蛇の抜け殻を見て捕まえようとする者のようです。むなしく自分の愚かさを示して、他人の嘲りを買うにすぎません。すべて今の士族は、身分を落としたといって悲しむ者が多いのですが、落とすにも上げるにも、結局は物の基準を定めていない議論です。平民と同格になるのは下落だというでしょうが、旧主人である華族と同席して平伏しないのは昇進です。下落が嫌なら平民から遠ざかればよく、誰もこれを止めません。昇進を願うなら華族と交わればよく、これもまた妨げる者はありません。平民から遠ざかるにも華族に交わるにも、はたしてその身にどんな軽重がつくというのでしょうか。これを知らず、自分から心を悩ませるのは、誤りも甚だしいというべきです。ですから、形のある身分の下落や昇進に関心を持たず、形のない士族固有の品行を維持することこそ、私が心から望むところです。この際、心の持ちようを転換することが重要で、それを転換する道具としては、学校が特に有力ですから、わざわざ藩地の徳望ある方々にお願いして、ともに力を尽くして学校を盛んにしてほしいと願うのです。

解説

かつて命がけで争った御広間や記録の格式は、いまや風呂の薪と紙屑になった、という痛烈な比喩で、身分への執着が夢にすぎないと論じます。福沢は、地位の上げ下げを気にせず、形のない品行を保つことを求めます。会社の肩書や席次を、退職後に振り返ったときの感覚に近いかもしれません。ただし、華族と平民の序列を前提に論じている点には、当時の価値観が表れています。基準を自分で決めるという核心の教えを、読みの手がかりにしてください。

この章句が説くこと

御広間虚威身分の下落昇進品行心事の転換

関連する章句

『人生の方程式』の表紙

人生を、一行の式にしてみた。

志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。

本の中身を見る
本2冊(人生の方程式・人生の教科書)+師導1か月=700円 本を見る