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福沢諭吉小品集 / 旧藩情・第3段

第一、下等士族は何等の功績あるも何等の才力を抱くも、決して上等の席に昇進するを許さず。稀に祐筆などより立身して小姓組に入たる例もなきに非ざれども、治世二百五十年の間、三、五名に過ぎず。故に下等士族は、その下等中の黜陟に心を関して昇進を求れども、上等に入るの念は、もとよりこれを断絶して、その趣は走獣あえて飛鳥の便利を企望せざる者のごとし。また前にいえるごとく、大臣と小姓組との身分は大に異なるがごとくなれども、小姓組が立身して用人となりし例は珍らしからず。大臣の二、三男が家を分てば必ず小姓組たるの法なれば、必竟大臣も小姓組も同一種の士族といわざるを得ず。 また下等の中小姓と足軽との間にも甚しき区別あれども、足軽が小役人に立身してまた中小姓と為るは甚だ易し。しかのみならず百姓が中間と為り、中間が小頭となり、小頭の子が小役人と為れば、すなわち下等士族中に恥かしからぬ地位を占むべし。また足軽は一般に上等士族に対して、下座とて、雨中、往来に行逢うとき下駄を脱いで路傍に平伏するの法あり。足軽以上小役人格の者にても、大臣に逢えば下座平伏を法とす。啻に大臣のみならず、上士の用人役たる者に対しても、同様の礼をなさざるを得ず。また下士が上士の家に行けば、次の間より挨拶して後に同間に入り、上士が下士の家に行けば、座敷まで刀を持ち込むを法とす。 また文通に竪様、美様、平様、殿付け等の区別ありて、決してこれを変ずべからず。また言葉の称呼に、長少の別なく子供までも、上士の者が下士に対して貴様といえば、下士は上士に向てあなたといい、来やれといえば御いでなさいといい、足軽が平士に対し、徒士が大臣に対しては、直にその名をいうを許さず、一様に旦那様と呼て、その交際は正しく主僕の間のごとし。また上士の家には玄関敷台を構えて、下士にはこれを許さず。上士は騎馬し、下士は徒歩し、上士には猪狩川狩の権を与えて、下士にはこれを許さず。しかのみならず文学は下士の分にあらずとて、表向の願を以て他国に遊学するを許さざりしこともあり。

書き下し

第一、下等士族は何等の功績あるも何等の才力を抱くも、決して上等の席に昇進するを許さず。稀に祐筆などより立身して小姓組に入たる例もなきに非ざれども、治世二百五十年の間、三、五名に過ぎず。故に下等士族は、その下等中の黜陟に心を関して昇進を求れども、上等に入るの念は、もとよりこれを断絶して、その趣は走獣あえて飛鳥の便利を企望せざる者のごとし。また前にいえるごとく、大臣と小姓組との身分は大に異なるがごとくなれども、小姓組が立身して用人となりし例は珍らしからず。大臣の二、三男が家を分てば必ず小姓組たるの法なれば、必竟大臣も小姓組も同一種の士族といわざるを得ず。 また下等の中小姓と足軽との間にも甚しき区別あれども、足軽が小役人に立身してまた中小姓と為るは甚だ易し。しかのみならず百姓が中間と為り、中間が小頭となり、小頭の子が小役人と為れば、すなわち下等士族中に恥かしからぬ地位を占むべし。また足軽は一般に上等士族に対して、下座とて、雨中、往来に行逢うとき下駄を脱いで路傍に平伏するの法あり。足軽以上小役人格の者にても、大臣に逢えば下座平伏を法とす。啻に大臣のみならず、上士の用人役たる者に対しても、同様の礼をなさざるを得ず。また下士が上士の家に行けば、次の間より挨拶して後に同間に入り、上士が下士の家に行けば、座敷まで刀を持ち込むを法とす。 また文通に竪様、美様、平様、殿付け等の区別ありて、決してこれを変ずべからず。また言葉の称呼に、長少の別なく子供までも、上士の者が下士に対して貴様といえば、下士は上士に向てあなたといい、来やれといえば御いでなさいといい、足軽が平士に対し、徒士が大臣に対しては、直にその名をいうを許さず、一様に旦那様と呼て、その交際は正しく主僕の間のごとし。また上士の家には玄関敷台を構えて、下士にはこれを許さず。上士は騎馬し、下士は徒歩し、上士には猪狩川狩の権を与えて、下士にはこれを許さず。しかのみならず文学は下士の分にあらずとて、表向の願を以て他国に遊学するを許さざりしこともあり。

現代語訳

第一、下等士族は、どのような功績があっても、どのような才力を抱いていても、決して上等の席に昇進することを許されません。稀に祐筆などから立身して小姓組に入った例もないわけではありませんが、治世二百五十年のあいだに、三、五名にすぎません。ですから下等士族は、その下等の内部での昇進に心を寄せて昇進を求めますが、上等に入ろうという思いは、もとより断絶しており、その様子は走る獣が飛ぶ鳥の便利さを望まないようなものです。また前に述べたように、大臣と小姓組との身分は大きく異なるようですが、小姓組が立身して用人となった例は珍しくありません。大臣の二男・三男が家を分ければ必ず小姓組になる決まりですから、結局、大臣も小姓組も同一種の士族と言わざるをえません。 また下等の中小姓と足軽との間にも甚だしい区別がありますが、足軽が小役人に立身し、さらに中小姓になるのは非常に易しいことです。そればかりか、百姓が中間となり、中間が小頭となり、小頭の子が小役人となれば、下等士族の中で恥ずかしくない地位を占めることができます。また足軽は一般に上等士族に対して、下座といって、雨の中で道で行き会うとき、下駄を脱いで道端に平伏する法があります。足軽以上、小役人格の者でも、大臣に会えば下座して平伏するのが決まりです。大臣だけでなく、上士の用人役である者に対しても、同様の礼をしなければなりません。また下士が上士の家に行けば、次の間から挨拶して後に同じ間に入り、上士が下士の家に行けば、座敷まで刀を持ち込むのが決まりです。 また手紙には、竪様、美様、平様、殿付けなどの区別があり、決してこれを変えてはなりません。また言葉の呼び方に、年の長少の別なく子供にまで、上士の者が下士に対して「貴様」と言えば、下士は上士に向かって「あなた」と言い、「来やれ」と言えば「お出でなさい」と言い、足軽が平士に対し、徒士が大臣に対しては、直接にその名を言うことを許さず、一様に「旦那様」と呼び、その交際はまさに主従の間のようです。また上士の家には玄関と敷台を構え、下士にはこれを許しません。上士は騎馬し、下士は徒歩し、上士には猪狩・川狩の権利を与え、下士にはこれを許しません。そればかりか、文学は下士の分ではないとして、公式の願いによって他国へ遊学することを許さなかったこともありました。

解説

福沢が上等と下等を分ける第一の事実として挙げるのは、功績や才力があっても下等から上等へ昇れない、という昇進の壁です。さらに、下座、挨拶の作法、手紙の書式、呼び名、玄関の有無、遊学の許可と、日常のあらゆる場面に差が刻まれていたことを細かく列挙します。この列挙が、身分が制度だけでなく習慣として人を縛っていたことを実感させます。現代の職場にも、呼び方や席順、会議での発言順など、無意識の序列が潜むことがあります。自分の組織の見えない壁を点検する手がかりになります。

この章句が説くこと

昇進下座権利呼称上士と下士遊学

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