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福沢諭吉小品集 / 旧藩情・第17段

しかのみならず、たといかかる急変なくして尋常の業に従事するも、双方互に利害情感を別にし、工業には力をともにせず、商売には資本を合せず、却て互に相軋轢するの憂なきを期すべからず。これすなわち余輩の所謂消極の禍にして、今の事態の本位よりも一層の幸福を減ずるものなり。けだし人事の憂患、消極の域内に在るの間は、未だその積極を謀るに遑あらざるなり。 今消極の憂を憂てこれを防ぐにもせよ、積極の利を謀てこれを求るにもせよ、旧藩地にて有力なる人物は必ずこれを心配することならん、またこれを心配して実地に従事するについては様々の方便もあらん、また様々の差支もあらん、不如意は人生の常にしてこれを如何ともすべからず。故に余輩の注意するところは、未だ積極に及ばずして先ずその消極の憂を除くの路に進まんと欲するなり。すなわちその路とは他なし、今の学校を次第に盛にすることと、上下士族相互に婚姻するの風を勧ることと、この二箇条のみ。 そもそも海を観る者は河を恐れず、大砲を聞く者は鐘声に驚かず、感応の習慣によって然るものなり。人の心事とその喜憂栄辱との関係もまた斯のごとし。喜憂栄辱は常に心事に従て変化するものにして、その大に変ずるに至ては、昨日の栄として喜びしものも、今日は辱としてこれを憂ることあり。学校の教は人の心事を高尚遠大にして事物の比較をなし、事変の原因と結果とを求めしむるものなれば、一聞一見も人の心事を動かさざるはなし。

書き下し

しかのみならず、たといかかる急変なくして尋常の業に従事するも、双方互に利害情感を別にし、工業には力をともにせず、商売には資本を合せず、却て互に相軋轢するの憂なきを期すべからず。これすなわち余輩の所謂消極の禍にして、今の事態の本位よりも一層の幸福を減ずるものなり。けだし人事の憂患、消極の域内に在るの間は、未だその積極を謀るに遑あらざるなり。 今消極の憂を憂てこれを防ぐにもせよ、積極の利を謀てこれを求るにもせよ、旧藩地にて有力なる人物は必ずこれを心配することならん、またこれを心配して実地に従事するについては様々の方便もあらん、また様々の差支もあらん、不如意は人生の常にしてこれを如何ともすべからず。故に余輩の注意するところは、未だ積極に及ばずして先ずその消極の憂を除くの路に進まんと欲するなり。すなわちその路とは他なし、今の学校を次第に盛にすることと、上下士族相互に婚姻するの風を勧ることと、この二箇条のみ。 そもそも海を観る者は河を恐れず、大砲を聞く者は鐘声に驚かず、感応の習慣によって然るものなり。人の心事とその喜憂栄辱との関係もまた斯のごとし。喜憂栄辱は常に心事に従て変化するものにして、その大に変ずるに至ては、昨日の栄として喜びしものも、今日は辱としてこれを憂ることあり。学校の教は人の心事を高尚遠大にして事物の比較をなし、事変の原因と結果とを求めしむるものなれば、一聞一見も人の心事を動かさざるはなし。

現代語訳

それだけでなく、たとえこのような急な変事がなく、普通の仕事に従事していても、双方が互いに利害や感情を別にして、工業では力を合わせず、商売では資本を合わせず、かえって互いに摩擦し合う心配がないとは言えません。これがすなわち私のいう消極の禍で、今の状態を基準にしたときよりも一段幸福を減らすものです。思うに、人事の憂いが消極の範囲にあるあいだは、積極を謀る暇がないのです。 今、消極の憂いを憂えてそれを防ぐにせよ、積極の利益を謀ってそれを求めるにせよ、旧藩地の有力な人物は必ず心配することでしょうし、心配して実地に取り組むには様々な方法もあれば、様々な差し支えもあるでしょう。思うようにならないのは人生の常で、どうしようもありません。ですから私の注意するところは、まだ積極にまでは及ばず、まず消極の憂いを除く道に進もうというものです。その道とは他でもありません。今の学校を次第に盛んにすることと、上下の士族が互いに結婚する風潮を勧めること、この二箇条だけです。 そもそも、海を見た者は川を恐れず、大砲を聞いた者は鐘の音に驚きません。刺激に応じる習慣によってそうなるのです。人の心の持ちようと、その喜び憂い、栄誉や恥辱との関係も同じです。喜びや憂い、栄誉や恥辱は、つねに心の持ちようにしたがって変わるものです。その変化が大きいときは、昨日は栄誉として喜んだものが、今日は恥辱として憂えることもあります。学校の教えは、人の心の持ちようを高尚で遠大にし、物事を比較し、事変の原因と結果を求めさせるものですから、一度聞き一度見るだけでも、人の心を動かさないものはありません。

解説

福沢は、消極の禍を除く道として、学校の振興と上下の結婚の二つを挙げます。その理由づけが『海を見た者は川を恐れない』という比喩です。視野が広がれば、昨日の栄誉が今日の恥に見えるように、価値の物差しそのものが変わる、という考えです。現代でも、他社や他国、異分野を知った人が、社内の序列や慣習を相対化する例があります。学ぶことを物差しの更新としてとらえる点が、この段の要点です。

この章句が説くこと

消極の禍学校通婚心事栄辱比較

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