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福沢諭吉小品集 / 旧藩情・第16段

すなわち今の事態を維持して、門閥の妄想を払い、上士は下士に対して恰も格式りきみの長座を為さず、昔年のりきみは家を護り面目を保つの楯となり、今日のりきみは身を損じ愚弄を招くの媒たるを知り、早々にその座を切上げて不体裁の跡を収め、下士もまた上士に対して旧怨を思わず、執念深きは婦人の心なり、すでに和するの敵に向うは男子の恥るところ、執念深きに過ぎて進退窮するの愚たるを悟り、興に乗じて深入りの無益たるを知り、双方共にさらりと前世界の古証文に墨を引き、今後期するところは士族に固有する品行の美なるものを存して益これを養い、物を費すの古吾を変じて物を造るの今吾となし、恰も商工の働を取て士族の精神に配合し、心身共に独立して日本国中文明の魁たらんことを期望するなり。 然りといえども、その消極を想像してこれを憂うれば、また憂うべきものなきに非ず。数百年の間、上士は圧制を行い、下士は圧制を受け、今日に至てこれを見れば、甲は借主のごとく乙は貸主のごとくにして、未だ明々白々の差引をなさず。また上士の輩は昔日の門閥を本位に定めて今日の同権を事変と視做し、自からまた下士に向て貸すところあるごとく思うものなれば、双方共に苟も封建の残夢を却掃して精神を高尚の地位に保つこと能わざる者より以下は、到底この貸借の念を絶つこと能わず。現に今日にても士族の仲間が私に集会すれば、その会の席順は旧の禄高または身分に従うというも、他に席順を定むべき目安なければ止むを得ざることなれども、残夢の未だ醒覚せざる証拠なり。或は市中公会等の席にて旧套の門閥流を通用せしめざるは無論なれども、家に帰れば老人の口碑も聞き細君の愚痴も喧しきがために、残夢まさに醒めんとしてまた間眠するの状なきにあらず。これ等の事情をもって考るに、今の成行きにて事変なければ格別なれども、万に一も世間に騒動を生じて、その余波近く旧藩地の隣傍に及ぶこともあらば、旧痾たちまち再発して上士と下士とその方向を異にするのみならず、針小の外因よりして棒大の内患を引起すべきやも図るべからず。

書き下し

すなわち今の事態を維持して、門閥の妄想を払い、上士は下士に対して恰も格式りきみの長座を為さず、昔年のりきみは家を護り面目を保つの楯となり、今日のりきみは身を損じ愚弄を招くの媒たるを知り、早々にその座を切上げて不体裁の跡を収め、下士もまた上士に対して旧怨を思わず、執念深きは婦人の心なり、すでに和するの敵に向うは男子の恥るところ、執念深きに過ぎて進退窮するの愚たるを悟り、興に乗じて深入りの無益たるを知り、双方共にさらりと前世界の古証文に墨を引き、今後期するところは士族に固有する品行の美なるものを存して益これを養い、物を費すの古吾を変じて物を造るの今吾となし、恰も商工の働を取て士族の精神に配合し、心身共に独立して日本国中文明の魁たらんことを期望するなり。 然りといえども、その消極を想像してこれを憂うれば、また憂うべきものなきに非ず。数百年の間、上士は圧制を行い、下士は圧制を受け、今日に至てこれを見れば、甲は借主のごとく乙は貸主のごとくにして、未だ明々白々の差引をなさず。また上士の輩は昔日の門閥を本位に定めて今日の同権を事変と視做し、自からまた下士に向て貸すところあるごとく思うものなれば、双方共に苟も封建の残夢を却掃して精神を高尚の地位に保つこと能わざる者より以下は、到底この貸借の念を絶つこと能わず。現に今日にても士族の仲間が私に集会すれば、その会の席順は旧の禄高または身分に従うというも、他に席順を定むべき目安なければ止むを得ざることなれども、残夢の未だ醒覚せざる証拠なり。或は市中公会等の席にて旧套の門閥流を通用せしめざるは無論なれども、家に帰れば老人の口碑も聞き細君の愚痴も喧しきがために、残夢まさに醒めんとしてまた間眠するの状なきにあらず。これ等の事情をもって考るに、今の成行きにて事変なければ格別なれども、万に一も世間に騒動を生じて、その余波近く旧藩地の隣傍に及ぶこともあらば、旧痾たちまち再発して上士と下士とその方向を異にするのみならず、針小の外因よりして棒大の内患を引起すべきやも図るべからず。

現代語訳

それはつまり、今の状態を保ち、門閥の妄想を払うことです。上士は下士に対して、格式をふりかざす長居をせず、昔の誇示は家を守り面目を保つ楯であったが、今日の誇示は身を損ない、あざけりを招く原因になると知って、早々にその座を切り上げて見苦しい跡を収めること。下士もまた上士に対して昔の恨みを思わないこと。しつこいのは婦人の心であり、すでに和している敵に向かうのは男子の恥じるところで、しつこさが過ぎて進退窮まる愚を悟り、勢いに乗って深入りしても無益だと知ること。双方ともさらりと前の世界の古証文に墨を引いて消し、今後期待するところは、士族に固有の品行の美しいところを残してますますこれを養い、物を費やす昔の自分を、物を造る今の自分に変え、いわば商工の働きを取り入れて士族の精神と組み合わせ、心身ともに独立して、日本国中の文明の先駆けとなることを望むのです。 しかし、その消極を想像して心配すれば、やはり心配すべきことがないわけではありません。数百年のあいだ、上士は圧制を行い、下士は圧制を受け、今日になってこれを見ると、甲は借り主のように、乙は貸し主のようで、まだ明々白々な差し引きをしていません。また上士の者は、昔日の門閥を基準と定めて、今日の同権を変事のように見なし、自分では下士に貸しがあるかのように思っています。ですから双方とも、封建の名残の夢を払い、精神を高尚な地位に保つことのできない者より下は、この貸し借りの念を絶てません。現に今日でも、士族の仲間が私的に集まれば、席順は昔の禄高や身分に従うといいます。ほかに席順を決める目安がないので仕方がないとはいえ、夢がまだ醒めていない証拠です。また、市中の公の会などの席で、昔どおりの門閥流を通用させないのは無論ですが、家に帰れば老人の昔話を聞き、妻の愚痴もやかましいので、夢が醒めようとしてまた居眠りをするような様子もないではありません。こうした事情から考えると、今のまま何も起こらなければ別ですが、万が一にも世間に騒動が起こり、その余波が旧藩地の近隣に及ぶことがあれば、古い持病がたちまち再発し、上士と下士とが方向を異にするだけでなく、針ほどの小さな外からの原因から、棒ほどの大きな内部の災いを引き起こさないとも限りません。

解説

福沢の願いは、上士は格式の誇示をやめ、下士は旧怨を捨て、双方が古証文に墨を引いて、物を造る側へ転じることです。一方で、消極の面も忘れず、席順一つにも残る貸し借りの意識が、外から騒動が及べば再発しかねないと警告します。理想と同時にリスクを書く構成が特徴です。現代の組織統合や再編後の融和にも通じます。なお、しつこさを婦人の心になぞらえる箇所は、時代の偏見を含む表現で、今日の感覚と異なります。

この章句が説くこと

古証文貸し借り旧怨席順独立物を造る

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