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福沢諭吉小品集 / 旧藩情・第11段

これ等の事情を以て、下士の輩は満腹、常に不平なれども、かつてこの不平を洩すべき機会を得ず。その仲間の中にも往々才力に富み品行賤しからざる者なきに非ざれども、かかる人物は、必ず会計書記等の俗役に採用せらるるが故に、一身の利害に忙わしくして、同類一般の事を顧るに遑あらず。非役の輩は固より智力もなく、かつ生計の内職に役せられて、衣食以上のことに心を関するを得ずして日一日を送りしことなるが、二、三十年以来、下士の内職なるもの漸く繁盛を致し、最前はただ杉檜の指物膳箱などを製し、元結の紙糸を捻る等に過ぎざりしもの、次第にその仕事の種類を増し、下駄傘を作る者あり、提灯を張る者あり、或は白木の指物細工に漆を塗てその品位を増す者あり、或は戸障子等を作て本職の大工と巧拙を争う者あり、しかのみならず、近年に至ては手業の外に商売を兼ね、船を造り荷物を仕入れて大阪に渡海せしむる者あり、或は自からその船に乗る者あり。 もとより下士の輩、悉皆商工に従事するには非ざれども、その一部分に行わるれば仲間中の資本は間接に働をなして、些細の余財もいたずらに嚢底に隠るることなく、金の流通忙わしくして利潤もまた少なからず。藩中に商業行わるれば上士もこれを傍観するに非ず、往々竊に資本を卸す者ありといえども、如何せん生来の教育、算筆に疎くして理財の真情を知らざるが故に、下士に依頼して商法を行うも、空しく資本を失うか、しからざればわずかに利潤の糟粕を嘗るのみ。 下士の輩は漸く産を立てて衣食の患を免かるる者多し。すでに衣食を得て寸暇あれば、上士の教育を羨まざるを得ず。ここにおいてか、剣術の道場を開て少年を教る者あり(旧来、徒士以下の者は、居合い、柔術、足軽は、弓、鉄砲、棒の芸を勉るのみにて、槍術、剣術を学ぶ者、甚だ稀なりき)。子弟を学塾に入れ或は他国に遊学せしむる者ありて、文武の風儀にわかに面目を改め、また先きの算筆のみに安んぜざる者多し。ただしその品行の厳と風致の正雅とに至ては、未だ昔日の上士に及ばざるもの尠なからずといえども、概してこれを見れば品行の上進といわざるを得ず。

新字:これ等の事情を以て、下士の輩は満腹、常に不平なれども、かつてこの不平を洩すべき機会を得ず。その仲間の中にも往々才力に富み品行賤しからざる者なきに非ざれども、かかる人物は、必ず会計書記等の俗役に採用せらるるが故に、一身の利害に忙わしくして、同類一般の事を顧るに遑あらず。非役の輩は固より智力もなく、かつ生計の内職に役せられて、衣食以上のことに心を関するを得ずして日一日を送りしことなるが、二、三十年以来、下士の内職なるもの漸く繁盛を致し、最前はただ杉檜の指物膳箱などを製し、元結の紙糸を捻る等に過ぎざりしもの、次第にその仕事の種類を増し、下駄傘を作る者あり、提灯を張る者あり、或は白木の指物細工に漆を塗てその品位を増す者あり、或は戸障子等を作て本職の大工と巧拙を争う者あり、しかのみならず、近年に至ては手業の外に商売を兼ね、船を造り荷物を仕入れて大阪に渡海せしむる者あり、或は自からその船に乗る者あり。 もとより下士の輩、悉皆商工に従事するには非ざれども、その一部分に行わるれば仲間中の資本は間接に働をなして、些細の余財もいたずらに嚢底に隠るることなく、金の流通忙わしくして利潤もまた少なからず。藩中に商業行わるれば上士もこれを傍観するに非ず、往々窃に資本を卸す者ありといえども、如何せん生来の教育、算筆に疎くして理財の真情を知らざるが故に、下士に依頼して商法を行うも、空しく資本を失うか、しからざればわずかに利潤の糟粕を嘗るのみ。 下士の輩は漸く産を立てて衣食の患を免かるる者多し。すでに衣食を得て寸暇あれば、上士の教育を羨まざるを得ず。ここにおいてか、剣術の道場を開て少年を教る者あり(旧来、徒士以下の者は、居合い、柔術、足軽は、弓、鉄砲、棒の芸を勉るのみにて、槍術、剣術を学ぶ者、甚だ稀なりき)。子弟を学塾に入れ或は他国に遊学せしむる者ありて、文武の風儀にわかに面目を改め、また先きの算筆のみに安んぜざる者多し。ただしその品行の厳と風致の正雅とに至ては、未だ昔日の上士に及ばざるもの尠なからずといえども、概してこれを見れば品行の上進といわざるを得ず。

書き下し

これ等の事情を以て、下士の輩は満腹、常に不平なれども、かつてこの不平を洩すべき機会を得ず。その仲間の中にも往々才力に富み品行賤しからざる者なきに非ざれども、かかる人物は、必ず会計書記等の俗役に採用せらるるが故に、一身の利害に忙わしくして、同類一般の事を顧るに遑あらず。非役の輩は固より智力もなく、かつ生計の内職に役せられて、衣食以上のことに心を関するを得ずして日一日を送りしことなるが、二、三十年以来、下士の内職なるもの漸く繁盛を致し、最前はただ杉檜の指物膳箱などを製し、元結の紙糸を捻る等に過ぎざりしもの、次第にその仕事の種類を増し、下駄傘を作る者あり、提灯を張る者あり、或は白木の指物細工に漆を塗てその品位を増す者あり、或は戸障子等を作て本職の大工と巧拙を争う者あり、しかのみならず、近年に至ては手業の外に商売を兼ね、船を造り荷物を仕入れて大阪に渡海せしむる者あり、或は自からその船に乗る者あり。 もとより下士の輩、悉皆商工に従事するには非ざれども、その一部分に行わるれば仲間中の資本は間接に働をなして、些細の余財もいたずらに嚢底に隠るることなく、金の流通忙わしくして利潤もまた少なからず。藩中に商業行わるれば上士もこれを傍観するに非ず、往々窃に資本を卸す者ありといえども、如何せん生来の教育、算筆に疎くして理財の真情を知らざるが故に、下士に依頼して商法を行うも、空しく資本を失うか、しからざればわずかに利潤の糟粕を嘗るのみ。 下士の輩は漸く産を立てて衣食の患を免かるる者多し。すでに衣食を得て寸暇あれば、上士の教育を羨まざるを得ず。ここにおいてか、剣術の道場を開て少年を教る者あり(旧来、徒士以下の者は、居合い、柔術、足軽は、弓、鉄砲、棒の芸を勉るのみにて、槍術、剣術を学ぶ者、甚だ稀なりき)。子弟を学塾に入れ或は他国に遊学せしむる者ありて、文武の風儀にわかに面目を改め、また先きの算筆のみに安んぜざる者多し。ただしその品行の厳と風致の正雅とに至ては、未だ昔日の上士に及ばざるもの尠なからずといえども、概してこれを見れば品行の上進といわざるを得ず。

現代語訳

こうした事情で、下士の者たちは不満を腹いっぱいに抱えながら、その不満を漏らす機会はまったく得られませんでした。仲間の中にも、才能が豊かで品行も卑しくない者がいないわけではありませんが、そういう人物は必ず会計や書記などの俗役に採用されるため、わが身の利害に忙しく、同じ立場の者全体のことを顧みる暇がありません。役のない者はもとより知恵もなく、そのうえ暮らしのための内職に追われて、衣食以上のことに心を向けることができないまま日々を送っていました。ところが、二、三十年来、下士の内職がだんだん盛んになりました。初めは杉や檜の指物、膳、箱などを作り、元結の紙の糸をよる程度だったものが、次第に仕事の種類を増やし、下駄や傘を作る者、提灯を張る者、白木の指物細工に漆を塗って品位を上げる者、戸や障子などを作って本職の大工と腕を競う者が出ました。それだけでなく、近年では手仕事のほかに商売も兼ね、船を造り、荷物を仕入れて大阪へ渡らせる者、自分でその船に乗る者までいます。 もとより下士のすべてが商工業に従事しているわけではありませんが、その一部で行われれば、仲間の中の資本が間接的に働き、わずかな余分の金もむなしく財布の底に隠れることなく、金の流通が盛んになり、利益も少なくありません。藩内に商業が行われれば、上士もこれを傍観しているわけではなく、ひそかに資本を出す者もいます。しかし、生まれつきの教育で算術や筆算に疎く、金銭の実情を知らないため、下士に頼んで商売をしても、資本を失うか、そうでなければわずかに利益のかすをなめる程度です。 下士の者たちは、次第に財産を築き、衣食の心配から免れる者が多くなりました。すでに衣食が足りて少し暇ができると、上士が受けている教育をうらやまずにはいられません。そこで、剣術の道場を開いて少年を教える者が現れました(もともと徒士以下の者は、居合や柔術、足軽は弓、鉄砲、棒の芸を習うだけで、槍術や剣術を学ぶ者は非常にまれでした)。子弟を学塾に入れたり他国に遊学させたりする者も出て、文武の風儀は急に面目を改め、先の算術と筆算だけで満足する者も少なくなりました。ただし、品行の厳しさや風格の正しさとなると、昔の上士に及ばない者も少なくありませんが、おおむね見れば、品行は向上したといわざるをえません。

解説

ここでは下士の台頭が描かれます。不満を口にする機会はなくとも、内職が手工業から商売へと広がり、資本が回り、やがて教育を求める力になる、という流れです。一方、上士は算筆に疎く、商売に手を出しても利益を得られません。福沢の見立てでは、経済力と実務の力が教育への関心を生み、人の気風を変えました。現代の仕事に置き換えると、現場の小さな副業や工夫が学びの意欲を育てる、という読み方もできます。なお原文の『賤しからざる』は身分意識を伴う当時の語感で、今日の感覚と異なります。

この章句が説くこと

下士内職商売資本の流通算筆教育

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