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福沢諭吉小品集 / 経世の学、また講究すべし・第5段

ゆえに我が慶応義塾においては、上等の生徒に哲学・法学あるいは政治・経済の書を禁ぜざるは、これを禁ぜずして、その真成の理を解せしめ、是非判断の識を明らかならしめんがためなり。多年の実験によってこれを案ずるに、書を読むこといよいよ深き者は、いよいよ沈黙するが如し。而してその黙するや、これをいうを忘れたるに非ず、時あっていうときは、その言も亦適切にして、忌憚するところなきがゆえに、時としては俗耳を驚かすことなきに非ざれども、これはただ聴者不学の罪のみ。その適例は近きにあり。 近来世上に民権の議論しきりにかしましくして、外国にも先例なきが如きそのゆえんは何ぞや。今の民権論者は近来はじめてこれらの論旨を聞き得て、その奇異に驚き、これに驚き、これに動揺して、あたかも聾盲の耳目を開きたるが如きものなればなり。もとよりその論者中には、多年の苦学勉強をもって、内に知識を蔵め、広く世上の形勢を察して、大いに奮発する者なきに非ず。 我が輩、その人を知らざるに非ずといえども、概してこれを評すれば、今の民権論の特にかしましきは、とくに不学者流の多きがゆえなりといわざるをえず。実際には行われ難き事なれども、もしも諸方に行わるる政談演説を聴きて、その論勢の寛猛粗密を統計表につくりて見るべきものならば、そのいよいよ粗暴にして言論の無稽なる割合にしたがいて、その演説者もいよいよ不学なりとの事実を発明することあるべし。他なし、経世の事を論じて判断の明に乏しければなり。ゆえに我が義塾においては、生徒の卒業に至るまでは、ただ学識を育して判断の明を研くの一方に力をつくし、業成り塾を去るの後は、行くところに任して、かつてその言行に干渉するなしといえども、つねにその軽率ならざるを祈り、論ずるときは大いに論じ、黙するときは大に黙する者をもって、真に我が社友と認むるのみ。ただ漫然たる江湖において、論者も不学、聴者も不学、たがいに不学無勘弁の下界に戦う者は、捨ててこれを論ぜざるなり。

書き下し

ゆえに我が慶応義塾においては、上等の生徒に哲学・法学あるいは政治・経済の書を禁ぜざるは、これを禁ぜずして、その真成の理を解せしめ、是非判断の識を明らかならしめんがためなり。多年の実験によってこれを案ずるに、書を読むこといよいよ深き者は、いよいよ沈黙するが如し。而してその黙するや、これをいうを忘れたるに非ず、時あっていうときは、その言も亦適切にして、忌憚するところなきがゆえに、時としては俗耳を驚かすことなきに非ざれども、これはただ聴者不学の罪のみ。その適例は近きにあり。 近来世上に民権の議論しきりにかしましくして、外国にも先例なきが如きそのゆえんは何ぞや。今の民権論者は近来はじめてこれらの論旨を聞き得て、その奇異に驚き、これに驚き、これに動揺して、あたかも聾盲の耳目を開きたるが如きものなればなり。もとよりその論者中には、多年の苦学勉強をもって、内に知識を蔵め、広く世上の形勢を察して、大いに奮発する者なきに非ず。 我が輩、その人を知らざるに非ずといえども、概してこれを評すれば、今の民権論の特にかしましきは、とくに不学者流の多きがゆえなりといわざるをえず。実際には行われ難き事なれども、もしも諸方に行わるる政談演説を聴きて、その論勢の寛猛粗密を統計表につくりて見るべきものならば、そのいよいよ粗暴にして言論の無稽なる割合にしたがいて、その演説者もいよいよ不学なりとの事実を発明することあるべし。他なし、経世の事を論じて判断の明に乏しければなり。ゆえに我が義塾においては、生徒の卒業に至るまでは、ただ学識を育して判断の明を研くの一方に力をつくし、業成り塾を去るの後は、行くところに任して、かつてその言行に干渉するなしといえども、つねにその軽率ならざるを祈り、論ずるときは大いに論じ、黙するときは大に黙する者をもって、真に我が社友と認むるのみ。ただ漫然たる江湖において、論者も不学、聴者も不学、たがいに不学無勘弁の下界に戦う者は、捨ててこれを論ぜざるなり。

現代語訳

ですから、わが慶応義塾において、上級の生徒に哲学・法学、あるいは政治・経済の書を禁じないのは、禁じずに、その真の理を理解させ、是非を判断する識を明らかにさせるためです。多年の経験によって考えてみると、書を読むことがいよいよ深い者は、いよいよ沈黙するようです。そしてその沈黙は、言うことを忘れたからではなく、時にあって言うときには、その言葉もまた適切で、遠慮するところがないため、ときには俗耳を驚かすこともなくはありませんが、これはただ聞く者が不学であるせいです。その適例は身近にあります。 近ごろ世間で民権の議論がしきりにやかましく、外国にも先例がないようなのは、なぜでしょうか。今の民権論者は、近ごろはじめてこれらの論旨を聞いて、その珍しさに驚き、これに動揺して、あたかも聾者や盲者が耳目を開いたかのようなものだからです。もとよりその論者の中には、多年の苦学勉強によって内に知識を蓄え、広く世間の情勢を察して、大いに奮発する者がいないわけではありません。 私はその人を知らないわけではありませんが、概して評すれば、今の民権論が特にやかましいのは、特に不学の者が多いためと言わざるをえません。実際には行うのは難しいことですが、もし各所で行われる政談演説を聴いて、その論勢の寛猛や粗密を統計表に作って見ることができれば、いよいよ粗暴で言論が根拠のない割合に応じて、その演説者もいよいよ不学であるという事実を発見することがあるでしょう。他でもなく、経世の事を論じながら判断の明に乏しいからです。ですから、わが義塾では、生徒が卒業に至るまでは、ただ学識を育て判断の明を磨くことの一方に力を尽くし、学業が成って塾を去った後は、行くところに任せて、その言行に干渉することはありませんが、常にその軽率でないことを祈り、論じるときは大いに論じ、黙るときは大いに黙る者を、真にわが社友と認めるだけです。ただ漠然たる世間で、論者も不学、聴者も不学、互いに不学無分別の下界で戦う者は、捨てて論じないのです。

解説

福沢は、義塾が経世の書を禁じない理由を、真の理を理解させて判断力を養うためだと述べます。深く読む者ほど沈黙し、語るときは適切で遠慮がない、という観察は、知識と発言の関係を示します。一方で当時の民権論者を不学とまとめる断定は強く、論争的な見方でもあります。福沢の立場から読みつつ、反対側の言い分も考えたい箇所です。現代でも、声の大きさと理解の深さは比例しません。「論ずるときは大いに論じ、黙するときは大いに黙る」を、会議での自分の発言に引きつけてみてください。なお「聾盲」は当時の比喩で、今日の感覚と異なります。

この章句が説くこと

民権論不学判断の明沈黙社友卒業

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