福翁自伝 / 品行家風・不風流の由来
元来私は生れ付き殺風景でもあるまい、人間の天性に必ず無芸殺風景と約束があるでもなかろうと思うが、何分私の性質と云うよりも少年の時から様々の事情がコンな男にして仕舞たのでしょう。先ず第一に私は幼少の時から教育の世話をして呉れる者がないので、ロクに手習をせずに成長したから、今でも書が出来ない。成長の後でも自分で手本を習たら宜さそうなものだが、その時は既に洋学の門に入て天下の儒者流を目の敵にして、儒者のすることなら一から十まで皆気に入らぬ、就中その行状が好かない。口に仁義忠孝など饒舌りながら、サアと云うときには夫れ程に意気地はない。殊に不品行で酒を飲で詩を作て書が旨いと云えば評判が宜い。都て気に喰わぬ。よし/\洋学流の吾々は反対に出掛けて遣ろうと云う気になって、恰も江戸の剣術全盛の時代に刀剣を売払て仕舞い、兼て嗜きな居合も罷めて知らぬ風をして居たような塩梅式に、儒者の奴等が詩を作ると云えば此方は態と作らずに見せよう、奴等が書を善くすると云えば此方は殊更らに等閑にして善く書かずに見せようと、飛だ処に力身込で手習をしなかったのが生涯の失策。私の家の遺伝を云えば、父も兄も文人で、殊に兄は書も善くし、画も出来、篆刻も出来る程の多芸な人に、その弟はこの通りな無芸無能、書画は扨置き骨董も美術品も一切無頓着、住居の家も大工任せ、庭園の木石も植木屋次第、衣服の流行など何が何やら少しも知らず又知ろうとも思わず、唯人の着せて呉れるものを着て居る。或時家内の留守に急用が出来て外出のとき、着物を着替えようと思い、箪笥の引出しを明けて一番上にある着物を着て出て、帰宅の上、家内の者が私の着て居るのを見て、ソレは下着だと云て大に笑われたことがある。殺風景も些と念入の殺風景で、決して誉めた話でない。畢竟少年の時から種々様々の事情に逐われてコンな事に成行き、生涯これで終るのでしょう。兎角世間の人の悦んで居るような事は、私には楽みにならぬ、誠に損な性分です。ダカラ近来は芝居を見物したり、又は宅に芸人など呼ぶこともあるが、是れとて無上の快楽事とも思われず、マア/\児孫を集めて共に戯れ、色々な芸をさせたり嗜きな物を馳走したりして、一家内の長少睦しく互に打解けて談り笑うその談笑の声を一種の音楽として、老余の楽みにして居ます。
書き下し
元来私は生れ付き殺風景でもあるまい、人間の天性に必ず無芸殺風景と約束があるでもなかろうと思うが、何分私の性質と云うよりも少年の時から様々の事情がコンな男にして仕舞たのでしょう。先ず第一に私は幼少の時から教育の世話をして呉れる者がないので、ロクに手習をせずに成長したから、今でも書が出来ない。成長の後でも自分で手本を習たら宜さそうなものだが、その時は既に洋学の門に入て天下の儒者流を目の敵にして、儒者のすることなら一から十まで皆気に入らぬ、就中その行状が好かない。口に仁義忠孝など饒舌りながら、サアと云うときには夫れ程に意気地はない。殊に不品行で酒を飲で詩を作て書が旨いと云えば評判が宜い。都て気に喰わぬ。よし/\洋学流の吾々は反対に出掛けて遣ろうと云う気になって、恰も江戸の剣術全盛の時代に刀剣を売払て仕舞い、兼て嗜きな居合も罷めて知らぬ風をして居たような塩梅式に、儒者の奴等が詩を作ると云えば此方は態と作らずに見せよう、奴等が書を善くすると云えば此方は殊更らに等閑にして善く書かずに見せようと、飛だ処に力身込で手習をしなかったのが生涯の失策。私の家の遺伝を云えば、父も兄も文人で、殊に兄は書も善くし、画も出来、篆刻も出来る程の多芸な人に、その弟はこの通りな無芸無能、書画は扨置き骨董も美術品も一切無頓着、住居の家も大工任せ、庭園の木石も植木屋次第、衣服の流行など何が何やら少しも知らず又知ろうとも思わず、唯人の着せて呉れるものを着て居る。或時家内の留守に急用が出来て外出のとき、着物を着替えようと思い、箪笥の引出しを明けて一番上にある着物を着て出て、帰宅の上、家内の者が私の着て居るのを見て、ソレは下着だと云て大に笑われたことがある。殺風景も些と念入の殺風景で、決して誉めた話でない。畢竟少年の時から種々様々の事情に逐われてコンな事に成行き、生涯これで終るのでしょう。兎角世間の人の悦んで居るような事は、私には楽みにならぬ、誠に損な性分です。ダカラ近来は芝居を見物したり、又は宅に芸人など呼ぶこともあるが、是れとて無上の快楽事とも思われず、マア/\児孫を集めて共に戯れ、色々な芸をさせたり嗜きな物を馳走したりして、一家内の長少睦しく互に打解けて談り笑うその談笑の声を一種の音楽として、老余の楽みにして居ます。
現代語訳
もともと私は生まれつき殺風景でもあるまいし、人間の天性に必ず無芸殺風景と決まっているわけでもなかろうと思いますが、どうも私の性質というよりも、少年のときからさまざまの事情がこんな男にしてしまったのでしょう。まず第一に、私は幼少のとき教育の世話をしてくれる者がなかったので、ろくに手習いをせずに成長したから、今でも字が書けません。成長の後でも自分で手本を習ったらよさそうなものですが、その時はすでに洋学の門に入って、天下の儒者流を目の敵にして、儒者のすることなら一から十までみな気に入らず、とりわけその行状が好きになれませんでした。口に仁義忠孝などとしゃべりながら、いざというときにはそれほどの意気地はない。ことに不品行で、酒を飲んで詩を作り、書がうまいと言えば評判がよい。すべて気に食わない。よしよし、洋学流の我々は反対に出てやろうという気になって、ちょうど江戸の剣術全盛の時代に刀剣を売り払ってしまい、かねて好きな居合もやめて知らぬ顔をしていたようなやり方で、儒者の連中が詩を作るというならこちらはわざと作らずに見せよう、連中が書をよくするというならこちらはことさらに放っておいてよく書かずに見せようと、とんでもないところに力んで手習いをしなかったのが生涯の失策です。私の家の遺伝を言えば、父も兄も文人で、ことに兄は書もよくし、画もでき、篆刻もできるほどの多芸な人で、その弟はこのとおりの無芸無能、書画はさておき骨董も美術品も一切無頓着、住まいの家も大工任せ、庭園の木石も植木屋次第、衣服の流行など何が何やら少しも知らず、また知ろうとも思わず、ただ人が着せてくれるものを着ています。あるとき家内の留守に急用ができて外出のとき、着物を着替えようと思い、箪笥の引き出しを開けて一番上にある着物を着て出て、帰宅の上、家内の者が私の着ているのを見て、それは下着ですと言って大笑いされたことがあります。殺風景もちょっと念の入った殺風景で、決して誉めた話ではありません。結局、少年のときからさまざまの事情に追われてこんなことになり、生涯これで終わるのでしょう。とかく世間の人が喜んでいるようなことは、私には楽しみになりません。まことに損な性分です。だから近ごろは芝居を見物したり、または家に芸人などを呼ぶこともありますが、これとて無上の快楽とも思われず、まあまあ子や孫を集めて共に戯れ、いろいろな芸をさせたり好きな物を馳走したりして、一家の長少が睦まじく互いに打ち解けて話し笑うその談笑の声を、一種の音楽として老後の楽しみにしています。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・幼少の時・儒教主義の教育夫れから最う一つ之に加えると、私の父は学者であった。普通の漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の金持、加島屋、鴻ノ池というような者に交際して藩債の事を司どる役であるが、元来父はコンナ事が不平で堪らない。金銭なんぞ取扱うよりも読書一偏の学者になって居たいという考であるに、存じ掛もなく算盤を執て金の数を数えなければならぬとか、藩借延期の談判をしなければならぬとか云う仕事で、今の洋学者とは大に違って、昔の学者は銭を見るも汚れると云うて居た純粋の学者が、純粋の俗事に当ると云う訳けであるから、不平も無理はない。ダカラ子供を育てるのも全く儒教主義で育てたものであろうと思うその一例を申せば、斯う云うことがある。私は勿論幼少だから手習どころの話でないが、最う十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習をするには、倉屋敷の中に手習の師匠があって、其家には町家の小供も来る。其処でイロハニホヘトを教えるのは宜しいが、大阪の事だから九々の声を教える。二二が四、二三が六。これは当然の話であるが、その事を父が聞て、怪しからぬ事を教える。幼少の小供に勘定の事を知らせると云うのは以ての外だ。斯う云う処に小供は遣て置かれぬ。何を教えるか知れぬ。早速取返せと云て取返した事があると云うことは、後に母に聞きました。何でも大変喧ましい人物であったことは推察が出来る。その書遺したものなどを見れば真実正銘の漢儒で、殊に堀河の伊藤東涯先生が大信心で、誠意誠心、屋漏に愧じずということ許り心掛たものと思われるから、その遺風は自から私の家には存して居なければならぬ。一母五子、他人を交えず世間の附合は少く、明ても暮れても唯母の話を聞く許り、父は死んでも生きてるような者です。ソコデ中津に居て、言葉が違い着物が違うと同時に、私共の兄弟は自然に一団体を成して、言わず語らずの間に高尚に構え、中津人は俗物であると思て、骨肉の従兄弟に対してさえ、心の中には何となく之を目下に見下して居て、夫等の者のすることは一切咎もせぬ、多勢に無勢、咎立をしようと云ても及ぶ話でないと諦らめて居ながら、心の底には丸で歯牙に掛けずに、云わば人を馬鹿にして居たようなものです。今でも覚えて居るが、私が少年の時から家に居て、能く饒舌りもし、飛び廻わり刎ね廻わりして、至極活溌にてありながら、木に登ることが不得手で、水を泳ぐことが皆無出来ぬと云うのも、兎角同藩中の子弟と打解けて遊ぶことが出来ずに孤立した所為でしょう。
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福翁自伝・品行家風・莫逆の友なし経済の事は右の如くにして、私は私の流義を守て生涯このまゝ替えずに終ることであろうと思いますが、ソレから又自分の一身の行状は如何であったか、家を成した後に家の有様は如何かと云うことに付て、有りのまゝの次第を語りましょう。扨私の若い時は如何だと申すに、中津に居たとき子供の時分から成年に至るまで、何としても同藩の人と打解けて真実に交わることが出来ない、本当に朋友になって共々に心事を語る所謂莫逆の友と云うような人は一人もない、世間にないのみならず親類中にもない、と云て私が偏窟者で人と交際が出来ないと云うではない。ソリャ男子に接しても婦人に逢うても快く話をして、ドチラかと云えばお饒舌りの方であったが、本当を云うと表面ばかりで、実はこの人の真似をして見たい、彼の人のように成りたいとも思わず、人に誉められて嬉しくもなく、悪く云われて怖くもなく、都て無頓着で、悪く評すれば人を馬鹿にして居たようなもので、仮初にも争う気がないその証拠には、同年輩の子供と喧嘩をしたことがない、喧嘩をしなければ怪我もしない、友達と喧嘩をして泣て家に帰て阿母さんに言告けると云うようなことは唯の一度もない。口先き計り達者で内実は無難無事な子でした。
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福翁自伝・幼少の時・門閥制度は親の敵・年十四、五歳にして始めて読書に志す如斯なことを思えば、父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、空しく不平を呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ。又初生児の行末を謀り、之を坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ、その愛情の深さ、私は毎度この事を思出し、封建の門閥制度を憤ると共に、亡父の心事を察して独り泣くことがあります。私の為めに門閥制度は親の敵で御座る。 私は坊主にならなかった。坊主にならずに家に居たのであるから学問をすべき筈である。所が誰も世話の為人がない。私の兄だからと云て兄弟の長少僅か十一しか違わぬので、その間は皆女の子、母も亦たった一人で、下女下男を置くと云うことの出来る家ではなし、母が一人で飯を焚いたりお菜を拵えたりして五人の小供の世話をしなければならぬから、中々教育の世話などは存じ掛もない。云わばヤリ放しである。藩の風で幼少の時から論語を続むとか大学を読む位の事は遣らぬことはないけれども、奨励する者とては一人もない。殊に誰だって本を読むことの好な子供はない。私一人本が嫌いと云うこともなかろう、天下の小供みな嫌いだろう。私は甚だ嫌いであったから休でばかり居て何もしない。手習もしなければ本も読まない。根っから何にもせずに居た所が、十四か十五になって見ると、近処に知て居る者は皆な本を読で居るのに、自分独り読まぬと云うのは外聞が悪いとか恥かしいとか思たのでしょう。夫れから自分で本当に読む気になって、田舎の塾へ行始めました。どうも十四、五になって始めて学ぶのだから甚だきまりが悪い。外の者は詩経を読むの書経を読むのと云うのに、私は孟子の素読をすると云う次第である。所が茲に奇な事は、その塾で蒙求とか孟子とか論語とかの会読講義をすると云うことになると、私は天禀、少し文才があったのか知らん、能く其の意味を解して、朝の素読に教えて呉れた人と、昼からになって蒙求などの会読をすれば、必ず私がその先生に勝つ。先生は文字を読む許りでその意味は受取の悪い書生だから、之を相手に会読の勝敗なら訳けはない。
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福翁自伝・幼少の時・手端器用なり以上は学問の話しですが、尚お此の外に申せば、私は旧藩士族の小供に較べて見ると手の先きの器用な奴で、物の工夫をするような事が得意でした。例えば井戸に物が墜ちたと云えば、如何云う塩梅にして之を揚げるとか、箪笥の錠が明かぬと云えば、釘の尖などを色々に抂げて遂に見事に之を明けるとか云う工風をして面白がって居る。又た障子を張ることも器用で、自家の障子は勿論、親類へ雇われて張りに行くこともある。兎に角に何をするにも手先が器用でマメだから、自分にも面白かったのでしょう。ソレカラ段々年を取るに従て仕事も多くなって、固より貧士族のことであるから、自分で色々工風して、下駄の鼻緒もたてれば雪駄の剥れたのも縫うと云うことは私の引受けで、自分のばかりでない、母のものも兄弟のものも繕うて遣る。或は畳針を買て来て畳の表を附け替え、又或は竹を割って桶の箍を入れるような事から、その外、戸の破れ屋根の漏りを繕うまで当前の仕事で、皆私が一人でして居ました。ソレカラ進んで本当の内職を始めて、下駄を拵えたこともあれば、刀剣の細工をしたこともある。刀の身を磨ぐことは知らぬが、鞘を塗り柄を巻き、その外、金物の細工は田舎ながらドウヤラコウヤラ形だけは出来る。今でも私の塗た虫喰塗りの脇差の鞘が宅に一本あるが、随分不器用なものです。都てコンナ事は近処に内職をする士族があってその人に習いました。
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福翁自伝・王政維新・幕府の攘夷主義(5)夫からモウ一つ私の身に就て云えば、少年の時から中津の藩を出て仕舞たので、所謂藩の役人らしい公用を勤めたことがない。夫れから前にも云う通り、江戸に来て徳川の政府に雇われたからと云た所が、是れは云わば筆執る飜訳の職人で、政治に与かろう訳けもない。只職人の積りで居るのだから、政治の考と云うものは少しもない。自分でも仕ようとも思わなければ、又私は出来ようとも思わない。仮令い又私が奮発して、幕府なり上方なり何でも都合の宜い方に飛出すとした処が、人の下流に就て仕事をすることは固より出来ず、中津藩の小士族で他人に侮辱軽蔑されたその不平不愉快は骨に徹して忘れられないから、今更ら他人に屈してお辞儀をするのは禁物である。左れば大に立身して所謂政治界の大人とならんか、是れも甚だ面白くない。前にも申した通り私は儀式の箱に入れられて小さくなるのを嫌う通りに、その通りに儀式張て横風な顔をして人を目下に見下だすことも亦甚だ嫌いである。例えば私は少年の時から人を呼棄にしたことがない。車夫、馬丁、人足、小商人の如き下等社会の者は別にして、苟も話の出来る人間らしい人に対して無礼な言葉を用いたことはない。青年書生は勿論、家内の子供を取扱うにもその名を呼棄にすることは出来ない。左る代りに政治社会の歴々とか何とか云う人を見ても何ともない。夫れも白髪の老人とでも云えば老人相応に待遇はすれども、その人の官爵が高いなんて高慢な風をすれば唯可笑しいばかりで、話をするのも面白くない。是れは私が持て生れた性質か、又は書生流儀の習慣か、老年の今日に至るまでも同じ事で、之を要するに如何しても青雲の雲の上には向きの悪い男であるから、維新前後にも独り別物になって居たことゝ、自分で自分の事を推察して居ます。ソレはソレとして、
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福翁自伝・大阪修業・血に交わりて赤くならず(2)自分でも不思議のようにあるが、是れは如何しても私の家の風だと思います。幼少の時から兄弟五人、他人まぜずに母に育てられて、次第に成長しても、汚ない事は仮初にも蔭にも日向にも家の中で聞たこともなければ話した事もない。清浄潔白、自から同藩普通の家族とは色を異にして、ソレカラ家を去て他人に交わっても、その風をチャント守て、別に慎むでもない、当然な事だと思て居た。ダカラ緒方の塾に居るその間も、遂ぞ茶屋遊をするとか云うような事は決してない、と云いながら前にも云う通り何も偏屈で夫れを嫌って恐れて逃げて廻って蔭で理屈らしく不平な顔をして居ると云うような事も頓としない。遊廓の話、茶屋の話、同窓生と一処になってドシ/″\話をして問答して、而して私は夫れを又冷かして、「君達は誠に野暮な奴だ。茶屋に行てフラレて来ると云うような馬鹿があるか。僕は登楼は為ない。為ないけれども、僕が一度び奮発して楼に登れば、君達の百倍被待て見せよう。君等のようなソンナ野暮な事をするなら止して仕舞え。ドウセ登楼などの出来そうな柄でない。田舎者めが、都会に出て来て茶屋遊の ABC を学んで居るなんて、ソンナ鈍いことでは生涯役に立たぬぞと云うような調子で哦鳴り廻って、実際に於てその哦鳴る本人は決して浮気でない。ダカラ人が私を馬鹿にすることは出来ぬ。能く世間にある徳行の君子なんて云う学者が、ムヅ/\してシント考えて、他人の為ることを悪い/\と心の中で思て不平を呑で居る者があるが、私は人の言行を見て不平もなければ心配もない、一緒に戯れて洒蛙々々として居るから却て面白い。
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