福翁自伝 / 品行家風・始めて東京の芝居を観る
前に申す通り、私は江戸に来て六年目に始めて上野と云う処を見て、十四年自に始めて向島を見たと云うくらいの野暮だから、勿論芝居などを見物したことはない。少年のとき旧藩中津で、藩主が城内の能舞台で田舎の役者共を呼出して芝居を催し、藩士ばかりに陪観させる例があって、その時に一度見物して、その後大阪修業中、今の市川団十郎の実父海老蔵が道頓堀の興行中、或る夜同窓生が今から道頓堀の芝居に行くから一緒に行こう、酒もあると云うから、私は酒と聞て応と答え、ソレから行く道で酒を一升買て、徳利を携えて二、三人連れで芝居に這入り、夜分二幕か三幕見たのが生来二度自の見物。ソレから江戸に来て、江戸が東京となっても、芝居見物の事は思出しもせず、又その機会もなくして居る中に、今を去ること凡そ十五、六年前、不図した事で始めて東京の芝居を見て、その時戯れに、 誰道名優伎絶倫 先生遊戯事尤新 春風五十独醒客 却作梨園一酔人 と云う詩が出来ました。之を見ると私が変人のようにあるが、実は鳴物は甚だ好きで、女の子には娘にも孫にも琴、三味線を初め、又運動半分に踊の稽古もさせて老余唯一の楽みにして居ます。
書き下し
前に申す通り、私は江戸に来て六年目に始めて上野と云う処を見て、十四年自に始めて向島を見たと云うくらいの野暮だから、勿論芝居などを見物したことはない。少年のとき旧藩中津で、藩主が城内の能舞台で田舎の役者共を呼出して芝居を催し、藩士ばかりに陪観させる例があって、その時に一度見物して、その後大阪修業中、今の市川団十郎の実父海老蔵が道頓堀の興行中、或る夜同窓生が今から道頓堀の芝居に行くから一緒に行こう、酒もあると云うから、私は酒と聞て応と答え、ソレから行く道で酒を一升買て、徳利を携えて二、三人連れで芝居に這入り、夜分二幕か三幕見たのが生来二度自の見物。ソレから江戸に来て、江戸が東京となっても、芝居見物の事は思出しもせず、又その機会もなくして居る中に、今を去ること凡そ十五、六年前、不図した事で始めて東京の芝居を見て、その時戯れに、 誰道名優伎絶倫 先生遊戯事尤新 春風五十独醒客 却作梨園一酔人 と云う詩が出来ました。之を見ると私が変人のようにあるが、実は鳴物は甚だ好きで、女の子には娘にも孫にも琴、三味線を初め、又運動半分に踊の稽古もさせて老余唯一の楽みにして居ます。
現代語訳
前に申したとおり、私は江戸に来て六年目に初めて上野というところを見、十四年目に初めて向島を見たというくらいの野暮ですから、もちろん芝居などを見物したことはありません。少年のとき旧藩の中津で、藩主が城内の能舞台で田舎の役者たちを呼び出して芝居を催し、藩士ばかりに陪観させる例があって、その時に一度見物し、その後、大阪で修業中に、今の市川団十郎の実父の海老蔵が道頓堀で興行中、ある夜、同窓生が今から道頓堀の芝居に行くから一緒に行こう、酒もあると言うので、私は酒と聞いて応と答え、それから行く道で酒を一升買って、徳利を携えて二、三人連れで芝居に入り、夜分二幕か三幕見たのが生まれて二度目の見物です。それから江戸に来て、江戸が東京となっても、芝居見物のことは思い出しもせず、またその機会もなくいたところ、今を去ることおよそ十五、六年前、ふとしたことで初めて東京の芝居を見て、その時、戯れに、 誰道名優伎絶倫 先生遊戯事尤新 春風五十独醒客 却作梨園一酔人 という詩ができました。これを見ると私が変人のようですが、実は鳴物はたいへん好きで、女の子には、娘にも孫にも琴、三味線をはじめ、また運動半分に踊りの稽古もさせて、老後の唯一の楽しみにしています。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・品行家風・始めて上野、向島を見る私は安政三年、江戸に出て来て、只酒が好きだから所謂口腹の奴隷で、家にない時は飲みに行かなければならぬ、朋友相会すれば飲みに行くと云うような事は、ソリャ為て居るけれども、遂ぞ花見遊山はしない。文久三年六月、緒方先生不幸のとき、下谷の自宅出棺、駒込の寺に葬式執行のその時、上野山内を通行して、始めて上野と云う処を見た。即ち私が江戸に来てから六年目である。「成る程これが上野か、花の咲く処かと、通行しながら見物しました。向島もその通りで、江戸に来てから毎度人の話には聞くが一度も見たことがない。所で明治三年酷い腸窒扶斯を煩い、病後の運動には馬に乗るのが最も宜しいと、医者も勧め朋友も勧めたので、その歳の冬から馬に乗て諸方を乗廻り、向島と云う処も始めて見れば、玉川辺にも遊び、市中内外、行かれる処だけは何処でも乗廻わして、東京の方角も大抵分りました。その時に向島は景色もよし道もよし、毎度馬を試みて、向島を廻って上野の方に帰て来るとき、何でも土手のような処を通りながら、アヽ彼処が吉原かと心付て、ソレではこのまゝ馬に乗て吉原見物を為ようじゃないかと云出したら、連騎の者が場所柄に騎馬では余り風が悪いと止めて、ソレ切りになって未だに私は吉原と云う処を見たことがない。
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福翁自伝・幼少の時・厳ならずして家風正し今申す通り私共の兄弟は、幼少のとき中津の人と言語風俗を殊にして、他人の知らぬ処に随分淋しい思いをしましたが、その淋しい間にも家風は至極正しい。厳重な父があるでもないが、母子睦じく暮して兄弟喧嘩など唯の一度もしたことがない。のみか、仮初にも俗な卑陋な事はしられないものだと育てられて、別段に教える者もない、母も決して喧しい六かしい人でないのに、自然に爾うなったのは、矢張り父の遺風と母の感化力でしょう。その事実に現われたことを申せば、鳴物などの一条で、三味線とか何とか云うものを、聞こうとも思わなければ何とも思わぬ。斯様なものは全体私なんぞの聞くべきものでない、矧や玩ぶべき者でないと云う考を持て居るから、遂ぞ芝居見物など念頭に浮んだこともない。例えば、夏になると中津に芝居がある。祭の時には七日も芝居を興行して、田舎役者が芸をするその時には、藩から布令が出る。芝居は何日の間あるが、藩士たるものは決して立寄ることは相成らぬ、住吉の社の石垣より以外に行くことならぬと云うその布令の文面は、甚だ厳重なようにあるが、唯一片の御布令だけの事であるから、俗士族は脇差を一本挟して頬冠りをして颯々と芝居の矢来を破て這入る。若しそれを咎めれば却て叱り飛ばすと云うから、誰も怖がって咎める者はない。町の者は金を払て行くに、士族は忍姿で却て威張て只這入て観る。然るに中以下俗士族の多い中で、その芝居に行かぬのは凡そ私のところ一軒位でしょう。決して行かない。此処から先きは行くことはならぬと云えば、一足でも行かぬ、どんな事があっても。私の母は女ながらも遂ぞ一口でも芝居の事を子供に云わず、兄も亦行こうと云わず、家内中一寸でも話がない。夏、暑い時の事であるから凉には行く。併しその近くで芝居をして居るからと云て見ようともしない、どんな芝居を遣て居るとも噂にもしない、平気で居ると云うような家風でした。
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福翁自伝・緒方の塾風・芝居見物の失策それに引換えて此方から取られたことがある。道頓堀の芝居に与力や同心のような役人が見廻りに行くと、スット桟敷に通て、芝居の者共が茶を持て来る菓子を持て来るなどして、大威張りで芝居をたゞ見る。兼てその様子を知て居るから、緒方の書生が、気味の悪い話サ、大小を挟して宗十郎頭巾を冠て、その役人の真似をして度々行て、首尾能く芝居見物して居た。所が度重なれば顕われるの諺に洩れず、或る日、本者が来た。サア此方は何とも云われないだろう、詐欺だから、役人を偽造したのだから。その時はこねくられたとも何とも、進退谷まり大騒ぎになって、夫れから玉造の与力に少し由縁を得て、ソレに泣付て内済を頼で、ヤット無事に収まった。そのとき酒を持て行たり肴を持て行たりして、何でも金にして三歩ばかり取られたと思う。この詐欺の一件は丹後宮津の高橋順益と云う男が頭取であったが、私は元来芝居を見ない上に、この事を不安心に思うて、「それは余り宜くなかろう、マサカの時は大変だからと云たが肯ない。「何に訳けはない、自から方便ありなんてヅウ/″\しく遣て居たが、とう/\捕まったのが可笑しい所か一時大心配をした。
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福翁自伝・品行家風・不風流の由来元来私は生れ付き殺風景でもあるまい、人間の天性に必ず無芸殺風景と約束があるでもなかろうと思うが、何分私の性質と云うよりも少年の時から様々の事情がコンな男にして仕舞たのでしょう。先ず第一に私は幼少の時から教育の世話をして呉れる者がないので、ロクに手習をせずに成長したから、今でも書が出来ない。成長の後でも自分で手本を習たら宜さそうなものだが、その時は既に洋学の門に入て天下の儒者流を目の敵にして、儒者のすることなら一から十まで皆気に入らぬ、就中その行状が好かない。口に仁義忠孝など饒舌りながら、サアと云うときには夫れ程に意気地はない。殊に不品行で酒を飲で詩を作て書が旨いと云えば評判が宜い。都て気に喰わぬ。よし/\洋学流の吾々は反対に出掛けて遣ろうと云う気になって、恰も江戸の剣術全盛の時代に刀剣を売払て仕舞い、兼て嗜きな居合も罷めて知らぬ風をして居たような塩梅式に、儒者の奴等が詩を作ると云えば此方は態と作らずに見せよう、奴等が書を善くすると云えば此方は殊更らに等閑にして善く書かずに見せようと、飛だ処に力身込で手習をしなかったのが生涯の失策。私の家の遺伝を云えば、父も兄も文人で、殊に兄は書も善くし、画も出来、篆刻も出来る程の多芸な人に、その弟はこの通りな無芸無能、書画は扨置き骨董も美術品も一切無頓着、住居の家も大工任せ、庭園の木石も植木屋次第、衣服の流行など何が何やら少しも知らず又知ろうとも思わず、唯人の着せて呉れるものを着て居る。或時家内の留守に急用が出来て外出のとき、着物を着替えようと思い、箪笥の引出しを明けて一番上にある着物を着て出て、帰宅の上、家内の者が私の着て居るのを見て、ソレは下着だと云て大に笑われたことがある。殺風景も些と念入の殺風景で、決して誉めた話でない。畢竟少年の時から種々様々の事情に逐われてコンな事に成行き、生涯これで終るのでしょう。兎角世間の人の悦んで居るような事は、私には楽みにならぬ、誠に損な性分です。ダカラ近来は芝居を見物したり、又は宅に芸人など呼ぶこともあるが、是れとて無上の快楽事とも思われず、マア/\児孫を集めて共に戯れ、色々な芸をさせたり嗜きな物を馳走したりして、一家内の長少睦しく互に打解けて談り笑うその談笑の声を一種の音楽として、老余の楽みにして居ます。
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福翁自伝・品行家風・大言壮語の中、忌むべきを忌むソレから国を去て長崎に行き大阪に出てその修業中も、ワイ/\朋友と共に笑い共に語て浮々して居るようにあるけれども、身の行状を慎み品行を正しくすると云うことは、努めずして自然にソレが私の体に備て居ると云ても宜しい。モウそれはさん/″\な乱暴な話をして、大言壮語、至らざる所なしと云う中にも、嫌らしい汚ない話と云うことは一寸とでも為たことがない。同窓生の話に能くある事で、昨夜、北の新地に遊んでなんと云うような事を云出そうとすると、私は態と其処を去らずに大箕坐をかいてワイ/\とその話を打消し、「馬鹿野郎、余計なことを口走るな、と云うような調子で雑ぜ返して仕舞う。ソレから江戸に出て来ても相替らずその通り、朋友も多い事だから相互に往来するのは不断の事で、頻りに飛廻て居たけれども、扨例の吉原とか深川とか云う事になると、朋友共が私に話をすることが出来ない。その癖私は能く事情を知て居る。誠に事細に知て居るその訳けは、小本なんぞ読むにも及ばず、近く朋友共が馬鹿話に浮かれて饒舌るのを、黙て聞て居れば容易に分る。六かしい事も何にもない、チャンと呑込んで知て居るけれども、如何なこと、左様な事を思出したこともないのみならず、吉原深川は扨置き、上野の花見に行たこともない。
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福翁自伝・幼少の時・鋸鑢に驚く金物細工をするに鑢は第一の道具で、是れも手製に作って、その製作には随分苦心して居た所が、その後、年経て私が江戸に来て先ず大に驚いたことがある、と申すは只の鑢は鋼鉄を斯うして斯う遣れば私の手にもヲシ/\出来るが、鋸鑢ばかりは六かしい。ソコデ江戸に這入たとき、今思えば芝の田町、処も覚えて居る、江戸に這入て往来の右側の家で、小僧が鋸の鑢の目を叩て居る。皮を鑢の下に敷いて鏨で刻んで颯々と出来る様子だから、私は立留て之を見て、心の中で扨々大都会なる哉、途方もない事が出来るもの哉、自分等は夢にも思わぬ、鋸の鑢を拵えようと云うことは全く考えたこともない、然るに小供がアノ通り遣て居るとは、途方もない工芸の進んだ場所だと思て、江戸に這入たその日に感心したことがあると云うような訳けで、少年の時から読書の外は俗な事ばかりして俗な事ばかり考えて居て、年を取ても兎角手先きの細工事が面白くて、動もすれば鉋だの鑿だの買集めて、何か作って見よう、繕うて見ようと思うその物は皆な俗な物ばかり、所謂美術と云う思想は少しもない。平生万事至極殺風景で、衣服住居などに一切頓着せず、如何いう家に居てもドンナ着物を着ても何とも思わぬ。着物の上着か下着かソレモ構わぬ。況して流行の縞模様など考えて見たこともない程の不風流なれども、何か私に得意があるかと云えば、刀剣の拵えとなれば、是れは善く出来たとか、小道具の作柄釣合が如何とか云う考はある。是れは田舎ながら手に少し覚えのある芸から自然に養うた意匠でしょう。
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